弱さこそ人の個性の本質だと考えられていて、パウロが 弱さの中でこそ神の力が十全に働く と 2コリント12:9 で述べている通りだと思います。他にパウロは 後の者が先になる という逆転や、十字架という弱さ・愚かさこそ真の知恵だと述べておりまして、音楽が神の力を賛美するものだとすると、十二弟子の弱さ・愚かさに宿る音韻学的意味は、十二音に対応する と素直に読めることと思います。
さて、私の手元にありますパンセでは、第4編 信仰の手段 の末節付近に、289 は配置されております。証拠 から始まる節です。信仰の手段として音楽を考えられ、その音楽的証拠を、十二弟子の本質ー弱さ・愚かさーに求めたパスカルに従うと、次のように言えるでしょう。
ハ(C)ペテロ‥3度の否認という破綻の奥に、教会の岩となる不動の本質が現れる。
嬰ハ/変ニ(C#)ゼべダイの子ヤコブ‥雷の子と呼ばれる激しさ、功名心の奥に、信仰を得て初めて本来の謙虚さが現れる。
ニ(D)ヨハネ‥黙示録と神秘的な福音書の書き手という伝承が、そのまま聖書の不可思議に重なる。
嬰ニ/変ホ(D#)アンデレ‥ペテロ、少年、ギリシア人、と繰り返し人を見つけて連れてくる役回り、という一貫した資質が、そのままイエスらしさに重なる。
ホ(E)フィリポ‥まだわからないのか、と指摘される理解の乏しさの奥に、父を本心から見たいと願う信仰への渇望が現れる。
ヘ(F)バルトロマイ‥モーセと預言者が書いている人 という言葉で導かれる場面が、そのまま預言者らしさに重なる。
嬰ヘ/変ト(F#)マタイ‥同胞に蔑まれる徴税人という弱さの奥に、誰よりも深くユダヤの成就を理解し記した本質が現れる。
ト(G)トマス‥復活を疑ったという弱さの奥に、真偽を確かめずにはいられない真理への誠実さという本質が現れる。
嬰ト/変イ(G#)アルファイの子ヤコブ‥福音書に情報が少ないという空白そのものが、姿を見せない神性への呼応に転じる。
イ(A)タダイ‥問いを発し、父と子の内在についての教義的な答えを引き出した数少ない登場場面が、そのまま 全てを説明する教義 に重なる。
嬰イ/変ロ(A#)熱心党のシモン‥律法への情熱が、そのまま 律法の聖性 に重なる。
ロ(B)イスカリオテのユダ‥裏切りという弱さそのものが、そのまま 世界の動きに流される万象 という本質として現れる。
これらは、大きく2つに分けられます。そのまま現れる群と、弱さの奥に現れる群である。
・直接型‥ニ(D)ヨハネ、嬰ニ/変ホ(D#)アンデレ、ヘ(F)バルトロマイ、イ(A)タダイ、嬰イ/変ロ(A#)シモン
・逆転型‥ハ(C)ペテロ、嬰ハ/変ニ(C#)ゼベダイの子ヤコブ、ホ(E)フィリポ、嬰ヘ/変ト(F#)マタイ、ト(G)トマス
・空白型(直接型の変種)‥嬰ト/変イ(G#)アルファイの子ヤコブ
・素朴型(直接型の変種)‥ロ(B)イスカリオテのユダ
12音階にはそれぞれ5音からなる直接型音階と逆転型音階が存在し、直接型には2音の変種が付随しており、逆 逆 直 直 逆 直 逆 逆 空 直 直 素 のような交替性も観察できます。(太字は白鍵音、斜体は黒鍵音)

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