吸殻

若造 調和 維持 正義 眠気 理念 過度 結合 体験 疎外 批評 学習 翻弄 本能 休息 様式 善意 愚鈍 誠実 脱自 目的 苛立 賢者 意味 抑止 規則 喪失 性質 放縦 隷属 礼節 解釈 卑屈 静観 侵食 退屈 方針 注油 論理 印象 分限 視点 胃腸 分別 名誉 読書 濃縮 飽和 沈黙 新奇 疲労 悲惨 欠点 世話 知恵 生活 難解 節度 晩成 自死 中毒 表情 永遠 吸殻

若造

なんでも純粋に信じてしまうほど、悪い弟子の見本はない。名人が、大きな苦労を愛弟子にかけたいなどと思うだろうか。

哲学書は、人に不幸を呼び覚ますことで、読者を考えさせるものほど良い。考え抜く目的とは、活力を得ることだ。どんな悪質な命題も、一度乗り越えたら、知性が守ってくれる。

人の心を豊かにしようと意図されたものほど、その人の幸せは減ってしまう。幸せであるには(多少なりとも)心を貧しくする必要がある。人の心を豊かにした文学が歴史に残らない必然である。

貧しい心を、もので埋め合わせる発想には知恵がない。ものは残るので、本当に心を豊かにしてしまうではないか!貧しい心を、長く残るもので埋めようとせずに、概念や、形に残らない出来事にこそ、お金を払い、翌日には忘れてしまいたまえ。記憶よりも、俊敏活発な知性のほうが、幸せをもたらしやすい。

ものを好む心の落とし穴。いつまでもそれがあることを望んでしまうこと。どんなものも、いつでも失われるものだと弁えないままに、ものを好まないこと。

真に必要な本を見つけるためには、多くの本に出会わなくてはならない、とも限らない。聖書のみ、生涯で読み得た人は、最も賢い人のひとりであるだけでなく、最も幸福な人である。

自明すぎることを、人は誰も追究しない。哲学とは修辞や装飾だ、との立場で哲学を書いた者が、かつていた。どれほど早くから完成された精神の持ち主だったろう。どれほど虚しく隔離された晩年だったろう。彼は若くして異常なほど恵まれ、努力と天分により卓越したゆえ、新奇な立場を歴史に対し表明しなくてはならなかった。常人に「わたしを真似してはならない」という教訓をただ残すためだけに。

10代に読んだ本が聖書であったならば、わたしは何も残さずに済んだろうに。


調和

否定するだけでは調和に至らない。数理的に調和を導いた論理を、わたしはまだ知らない。

スマホ。アプリの並んだ画面。広く浅く、深くならない思考。薄くなった人間性。
わたしの正しさが神によって亡ぼされる喜び。

自信とは、情報を多く集めた状態にすぎないので、根拠がないほうが優れている。自信があってもこれからうまくいくかどうかわからないと理解できる知性があるのだから。
しかし本来は、自信は信仰の敵だ。神でなく自分を信じるのだから。自分こそ神になろうとさえ思い至ってしまえるのも、確かに自信のなす業だ。

選択肢があるとは隷属先を選べるということだ。あなたには従いたくないから従いません、あなたになら喜んで従います、と時に応じて選択できるということだ。法律、宗教、職場、趣味であろうと。

普通は、という前置きは、孤立しがちな個性への慰めです。世の人はみな例外ばかりです。

疑問を持つことは、明らかに傷となる体験で、多くのストレスを伴うプロセスが控えている。答えや命題が得られた時には喜びを伴うが、疑問が深いほど傷の癒やしには役立たず、いずれまた古傷は痛み出す。

教会にこういう人がいた。わたしが研究している主題について話すと、「それはこういうだけだと思うけど」とわたしの前提を無下にした上で、「でも研究捗るといいねがんばって」と応援してくれた人だった。それからしばらく、わたしは自分の研究が意味のないものかも知れないと悩んだのだが、今になってその人の知性や教養を尊敬するようになった。というのも、その研究の結末は、やはりわたしの中での疑問の解消という形で解決を図れたにすぎなかったのであり、その人は顛末までその場で見透したのである。

言葉が個人に届くものになってしまった。全体に届くことがなくなってしまった。全体に届けることがあまりに難しくなってしまった。
学校の授業、選挙と国会、礼拝説教、マスメディアの、困難と自縛。

考える人は、必ず何かに囚われている。実際に出会う周囲の人たちの中にはそれに気づく人もいる。一定の知見や洞察を持ち、その人が囚われている事柄について、見て知っている。考える人の哀しみは、その囚われがしばしば、人生初期の頃の純粋な無知に由来するところだ。それは志となって、ひいては生涯の主題とされる。しかし、囚われている間はまだ探究の途上にあり、周囲が徐々に賢くなっていく中でも、本質的無知を保ってしまう。
もし晩年に一定の知見に達したなら、いずれ思想と呼ばれ、考える人として成功を収めるだろう。


維持

言われたことに注意ばかりして、言わなかったことを何も聞いていない人がいる。

言葉。退屈との闘い。部屋にじっとしていられないわたしとの。
「わたしが何か言ったところで、神に悖る悪魔の呟きなのだから、何も言えまい」
書斎のわたしが投げる言葉が、絶えずわたしに突き刺さる。

子供の頃の才能を消されない性格というのはある。
わたしは、頑固で鈍感で天然だったので、40歳手前までなんとか維持できた。

押し付けられるのを嫌い、避けるのは、押し付けている当人に、わたしたちのマナーを押し付けることはしませんよ、とする潔黙な表明である。

SF映画でよくみるメタバースのグラスデバイス。街ゆく人の属性がすぐにわかってしまったら、世の中がつまらなくなってしまう。なかなか知るのが難しいからこそ、街ゆく人にも関心を持てるのだ。

一時的に見えるから美しい。儚さ。永遠の美なんて、まやかしか、単なる欲望の対象でしかない。バッハの音楽だって、死の日までずっとかかっていたら、いつか嫌になってしまうだろう。美の感覚には休息が必要である。

べき思考をやめろ、しなくてはならないなどと考えるな、と言われて思考を封印しようとする人は、そのとおりにせずに、愛と倫理で生きることを否定された、とでも思っていればいい。べきやマストで考えてしまう自分を認めてあげたほうが、自己命令の肯定につながり、とんでもなく自由になれる。

「人に役立つことのほかに、人と関わる喜びがないのだよね。」
「では、君は、イエスキリストが人の役に立ったとでも思っているのですか?」


正義

善悪がわかる人になれ、というけど、あの人は悪だと思うのは、悪だよな笑と自分に問いかける。

群れる人は、正しさを持たない人だ。群れない人は、正しさを持っている人だ。どちらが良い生き方であるかについては、永遠に確定できないだろう。正しさは個人のためのもので、尊厳より連帯を重視する人もいる。

人から離れるために正しさはあるのです。自分だけが正しいと言いながら人と交わろうなんて甘い考えです。自分の正しさはひとりでいるための言い訳です。

正しいと思うことは、客観的に見るということです。自然科学でも、正しく知ると、自然から距離を置いてしまうでしょう。近づいて距離を縮めるには、自分の正しさを間に持ち込まないことです。己の正しさを悉く消滅潰亡させた人のみ、距離を縮めて近づいていけるのです。

言説は、正しいかどうかばかりではないのです。間違ったことを言えるのも人間性です。非難や論難が来たらかわして去るだけです。生涯正しくあれた人間が、歴史上何人いたというのです?

総裁選。愚民は期待し、庶民は応援し、インテリは論陣を張る。あらゆる手段においても戦わない者こそ善良な市民である。

世の人は、自分は正しいと感じないと心が安定しないものだけど、自分こそが人よりも正しいとまではあまり思わない。だから、あなたは正しくないとされると、正しくない状態に1人放置されるので、精神が崩れてもおかしくない。

押し付けられると、非難される。「だから、あなたはそんなに正しいですか?」と人間性を値踏みされる、つまりその人との縁が切れるのだ。

無理して付き合うことも、互いに愛し合うことであるのなら、この世は地獄と変わりない、という真理をやはり意味するだろう。

趣味によって、意図せず人を傷つけることがあります。趣味が良い、とは、趣味そのものの善し悪しでなく、趣味が人に与える影響や可能性を熟知していることです。その理解の内容に本当の趣味が現れます。

「よく知らないものに対して敬意を持つと言えるほど、君は軽薄な人間なのか?違うだろう。わたしをよく知らないのなら、わたしに敬意なんて持たなくていい。」

人は、わかり合うのでない。推し量り難いのだ。


眠気

やる気が出ない時には、解決できていない宿題がある。

頭が整理されず散らかっている状態にある時、眠いと感じる。頭が整理されていないことを、疲れたと感じる。眠気と疲労は、同じ源泉から湧いている。

今はなんでも、新しいものに見えすぎる。よく見ればどれも昔からあったものだ。実に恐ろしいデザインだ。

聖書は読むが、教養が浅いので、読み取れる内容が深くない。という人があり得る。聖書の言葉がどれほどの苦悩をもって書かれたか、鈍感に過ぎるので、少しも読み取れない。という人があり得る。

「わたしは、思想に無関係でいようとする人を好まない。なぜなら、その人にも思想があるのに無自覚で、しかもほかの思想を迎えようとも思わない姿勢を意味するからだ。思想がない人なんていないのに。」
「自分の持たされているバイアスを自覚できずにどうして、人のバイアスを指摘できますか。」

一流って、大事だ。遊びならどんな人だっていいけど、本当に時間を費やして信じて聞くなら。
あのとき駆け出しのわたしに付き合ってくれたあの人は、確かに趣味人だった。

年上の知人を避ける時期は、人生の忠告を必要としていない時期だ。結構今までも順風満帆で、その順境が過ぎ去ることも思わずに、好きなように生きたいとだけ考えている時期だ。必要とするのなら、必要な人に出会うのに、わざわざ避けるのは不要と考えているからだ。機会損失でもあり、自分への損切りでもある。

善く生きることはなぜかくも難しいか、ただ生きることはなぜかくも無意味でしかないのか、
善く生きることは全てを失うことだ、ただ生きることは何も得ないことだ、
全ての意味が遠く霞む…

そうしてやっと、わたしは生きる

無邪気な子供が嫌いだ。そのままではいつか破滅するので、せっかくの特性が失われなくてはならないからである。

思想によって沈没した時、思考で泳ぎ、知性が浮上させる。水中では、しばしば、己の顔が見え、言葉は泡にしかならない。深い海底まで潜らせた思想を、人は偉大と呼ぶ。


理念

批判されている様々な学者から学ぶことは、理念を現実にすることでなく、理念を持って生きることである。形を数値で設計しない限り、理念は正確に実現できない。

学問が世の中と結びつき、世の中の問題を解決する役割を持つようになったため、学問は芸術を兼ねざるを得なくなり、必然的に、宗教が次第に求められなくなった。

わかる、とは思考を省略することです。わかっている人は太りますが、疑問を進めたり、論理を展開している人は痩せます。わかることがないとどれだけ自覚しているかで、体質は決まります。

わかることが喜びである人は、広く知りたい人です。わからないことが喜びである人は、深く知りたい人です。わからなくたっていい人は、面白さを知りたいだけの人です。わかることを諦めている人こそ、高い人です。
すべてを理解したという人は、愚かな人です。

知性は不可能性の言葉に表れるものですが、それは自由を広げているものであり、自由を損なうものではないのです。否定を損失だと捉えるのは文字通り損失です。否定は必ず知性を拡充します。安易な自己肯定は自由を損ねると覚えなさい。

自死は事件であり結論ではない。考えた末に死を結論するほど、人は愚かにできていない。思考に不自由さを抱えたとしても、人の思考は回復できるものであり、自由のために賭けても回復すべきである。

わたしは読書量が多い人や、本を読むのが早い人、勉強を多くする人を、その時点ではまだあまり信用しない。わたしが見た最も賢い人は、お味はどう、と聞かれてただ、味がいい、と答えた人物だ。次に賢い人は、楽譜の最初の4小節で音楽の基礎の全てを手解きし、これだけでこんなに学べる、と教えた人物だ。賢さの本質を、わたしはこのように見ている。

教師の資質は、きちんと物事を教えられることだ。しかし、教師の魅力は、自分がどれだけ物事を知らないか痛いほどわかっていることだと思う。なんでも詳しく知っているような先生のもとでは、何を学んでもつまらないと思ってしまう。聞いて覚える、それだけだと、「一体何を学んでいるのわたしは」って子供の頃、思わなかったか。思わない人もたくさんいるだろう。受験がどうこうとか知識がどうこうとかの人にそういう人多いよな。

わたしは思考するのが好きだ。でも、思考するために生きるのは違うと思う。やはり、生きるために思考するのであり、思考に命を超える価値を認めない。わたしはやはり、考えるために生きるのではなく、考えることによって生きるのだ。


過度

なぜ人間には、ひとつの細胞も作れないのか、と科学者は問う。
傍から聞けば、ずいぶん不幸な考えに思う。

科学は迷信を廃すために進められたが、神の造作があまりに意外なものであるため、むしろさらに多くの迷信を生み、ついには両者の区別がつかないことが普通になってしまった。

言葉遣いは、本人の性格の形成や価値観、その人の世の中の見方にまで影響を与えるので、大事である。なぜなら、その言葉遣いで話した相手から、言葉に相応しい態度や挨拶や返事が、いつも返ってくるからである。ゆえに、言葉遣いで人が変わる、というのは説得性がある。

わたしは、人の苦しみについては、深くは理解しない。経験的に、わたしの苦しみが人にはわからないことをよく知ってしまっている。
ただ、わたしは、神の苦しみを分かち合いたいと願う。それゆえわたしは、なにがあろうと幸せである。

知識が多いと、ものをわかっていると思いやすく、知識は増えるものだと思いかねない。
思考が多いと、わからないことがあまりに多くあるので、知識は溶けて身体の栄養となり、元気になって、また元のとおり考えやすい。

もし、ある一言によって、具体的な情報や大量の知識が些末なものでしかなくなり、選択していた価値体系が溶融流解し、築き上げた労苦が廃墟に等しくなってしまったら、その一言こそが、物事の本質である。

若者が老人を別種の人間と見るように、賢者は愚か者を別の人間と見がちである。愛があれば、前者は尊敬を、後者は憐れみを意味するが、愛がなければ、相互軽蔑でしかない。

老害とは、未熟な若者が、その達人の特質を、所有も経験もできていないために理解が成立せず、漠然と大袈裟に見えている状態にすぎない。真の老害とは、その達人の個性的な欠点である。その欠陥はしばしば、組織や本人にとって大変な長所となっているので、弟子は、その欠点に自分が妨げられないよう努めるしかない。組織の中で最も困難な試練であり、唯一の試練である人も少なくない。

冗談を理解で消してしまう人のほうが、笑う人よりも高く見える。優しさの度合が深いのだ。

人生の成分が暇であると悟っただけ、教養もまた深まる。


結合

「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、人を幸せにさせる。なぜ神がイエスを「見捨てた」のか知りたくなるし、理解した気分になったとて、イエスのこの苦しみを分かち合いたい、と願ってしまうからだ。一方で、普段わたしが神を見向きもしない時にも、この叫びの言葉はわたしに向けられる。どうしてわたしをお見捨てになったのですか、と。わたしは見捨てることができなくなる。
わたしはこの言葉によって常に神と結えられるゆえ、わたしは幸せな人にならざるを得ない。

重力を減らせば、この星で圧し潰されることから免れるだろう。ただし、過度に減らしすぎてはならない。重力はわたしたちをこの星につなぎとめておく役割もあるのだから。天に昇ろうと望むばかりのわたしたちを。

権利は受益を、義務は犠牲を、一方が他方のためにある、という目的でもって正当化してしまえるゆえ、人々の暗黙の承認を得た。

噂話や報道であろうと、学術誌の論説であろうと、疲労を整理させる話題が望ましい。そうすれば、疲労のもつ応力によって知性が変容させられる。

SNSでストレスが増えてしまう昨今から考えるに、昔の人は、こんなに多くの情報に触れなかったばかりか、小さな思いを言葉にしたり、自分の考えを公表したり、論戦をふっかけて本心を言い放ったりすることは稀だった。
しかし本当は、人はそうすることを求め、常にそれらを知りたいと思い、さらには、それによってできるだけ互いに離れ合っていたい、と感じてもいたのだ。

旅によって、街から離れる。街に戻ると、旅先を思い出のうちに離れる。旅とは、距離欲を満たす行為である。

思索とは、神に僅かに劣るところまで離陸する恵みと、神に謙遜して着地する真理との運動である。頭を使う人は活動的である。

作法のある人には作法で、情には情で、礼には礼を失せぬように応えているうち、人を好きになることが稀になったことに気づく。恋とは無知の成せる業であり、道理を弁えた後では難しくなると知るのである。

ストレスを昇華していくうち、思ってもみない思考が生まれた。無為に発散するのが勿体無いと思うようになる。より強いストレスを求めるようにさえなる。

貧しい人は、与えられた分の中で幸福を得る。裕福な人は、余る分を分け与えることで幸福を得る。いずれの人もそれぞれに立派だと思えない人は、きっと幸せではないのだろう。


体験

本や動画で知っても、それは誰かのこと。自分で知ろうとして初めて、理解できる。その理解は自分ですべてを変化させる。いつか環境を完成させ、自分を完全なものにできるのか、わたしはまだ知らない。

どんな立場の人であっても、多くの人のことを知るだけでは充分でない。自分の部屋、生活習慣、身の回りこそ、自分の理解した内容である。

知りたいことは彫具にすぎない。問うたことが、人格を彫る。

思考を売ろうと考えている人へ。世にはすでに知悉している人が多くいるものですし、その上で文の書ける人も多くいます。彼らは思考を売ることをあえて選ばず、無名の職業で暮らすことを選んだのです。その上であなたの売ろうとしている思考の価値を考えるのです。まっとうな商いになることを祈ります。

書いたことがあれば、読み取りすぎない。

目的のない努力の恐ろしさ。目標を設定してその達成のために努力するなら、目的も単純になる。ところが、目的もなく努力していると、目的が現れたとき、多くの目標を同時に達成してしまうようなことを軽々とやってのける。多くの苦悩を伴うほど、多くの利益を人知れず受けてしまえる。

小物は目の前の魚を釣って帰宅する。大物は網に掛かっても引きちぎり、舟を揺らし、断末魔の叫びを力の限り振り絞って息絶える魚を捕らえるために漁に出る。

人に大仰な内容を期待するのは、生活に内容が消えた人だけである。


疎外

普段疎んでいる存在にこそ、今の自分に必要な真理が隠れている。書棚の隅で場所を取るだけの役割だった聖書のように。

思考は、内面の要求に基づく限り、永久に続く。誰でも、外の世界についてだけ考えては、すぐに飽きてしまうだろう。

意外とわからないものだと思わせる本を、若い頃から大切にしてきた。今では、わからない、が最高の娯楽になった。

日本語の「〜します」や「〜できる」には、人称の不定性がある。あなたがするのか、わたしがするのか、あなたもわたしもするのか、一般にみながするのか、ある特定の人たちだけするのか。主語を特定しないと、その言葉では誰もなにもしてもくれない。

幸せは人それぞれです。幸せのバリエーションが多様なのではありません。幸せをどれほど見出せているかが、人それぞれなのです。
自分についても同様です。

多様性の見た目には気をつけなさい。それはただの甘い誘惑です。多様性に瞞されてしまえば、現状で固定され、いつか疎外された状態で自分が見つかるでしょう。

街には、どうしようもないものが、どうしようもない目的で、どうしようもないほど売られている。多くの人が、本当に売るべきものを売る知恵を心得ずに、その日その日を売って働いている。しかし、軽蔑するのはよそう。使う人次第、買う人次第。売る価値は、売る人には見えにくいのだ。

あるビジネスエリート経験者は、お金の使い方を心得た人物だ。山や海など自然の中、古びた宿、人情のある街路、屋台料理を楽しむために、彼はお金を使う。反対に、あらゆる物、家具家電、知識、持ち家には、一銭も払わない。
彼は富のもたらす豊かさを軽蔑しつつ、人の心を楽しませるためだけに、お金を使うのである。すなわち、文明の本質を捉えている。

わたしの生まれ育った実家は、学問と職業には恵まれたが、収入の多い人は1人もいない。世から富を持たされるのを免れた、と考えても然程誤りではないだろう。


批評

批評は、公平さを心得るために読むものであって、捻じ曲がるためにあるのでない。

辛辣な批判は、身から出た錆である。一方に蒸着した表面を、他方で固着する前に磨かされる。

的外れな批判は、言われた者の頭上を流れるように飛び去り、地球を周回して言った張本人にぶっ刺さる。光陰矢の如く疾く。

的が明らかに定まり、良かれと思って放たれた矢が、かわされることを知っても、突き刺さる場所を怖れず飛ぶだろう。

幸福から遠ざかった作家を、わたしはあまり好まない。作品のために己の人生を賭した作家を、わたしはあまり信用しない。作品に連れられる風景を、わたしはただ作品に見たい。

処女作の精神は大体似通っている。晩年の述懐も大体似通っている。これは正統を生きた証である。

社会正義や人々の救済を目指す作家は、自身の言葉を信用しすぎるために、絶望しがちである。

もし眼の前の壁が透明であるなら、青空が交わって励ますだろうに。雲も憐れんで涙を呉れるだろうに。


学習

手を伸ばして眼の前から消えたものを、人は生涯大切にする。そのようなものとして人間に罪は与えられた。

Aな人はBである。を、Bな人はAである、と利用することは、単純な誤りであるが、強力な処世術にもなる。

学びから絶たれて、初めて動き出す。

書いたものを売ることも、有名になることも、自分を売ることだ。笑い物にされることも、軽蔑されることも、捨てられることも、されたくないのなら、売る前によく考えるべきだ。手前で身を慎んだ人も多いのだから。

詩句の分析はまだ作品ではないが役立つ行いである。いつか己の思惟が素材として拾い上げ、永遠の中で巧みに組み立つ瞬間が来るだろう。

自身の安定軌道を見つけた人は幸いである。永く下がった後、高度を日に日に上げる。

頭脳が耐えられる重さにも、両足で立てるほどの軽さにも、地上では限度と適量がある。

この世を軽快に生きよ。飛ばされた葉でなく、飛ぶ鳥のように。


翻弄

この世での生活が、いくら祈りを捧げても望まないもののままであるなら、天国へも行けないのである。この世は愛されているのだから。

心の貧しい人たちに耐えられないのなら、天国に期待するものを間違えているだけでなく、そもそも不幸と幸福を取り違えている。

空腹を満たすと忘れるように、人は豊かさをすぐに忘れる。不幸な人は満たすことを求め、幸福な人は空腹であることを求める。

実りの多い土地は、人を堕落させる。人は肥沃な土地ではなく、塩量の多い乾いた土地の土から創られた。

人が仕事を作り出すから、神は多く働くことになった。その不要な仕事を通して、神に人は支配されていった。この世界は、その仕事の跡、支配の証だ。

幸運なとき、時間は保有される。不運なときには、時間に追われる。時間を忘れたために追われる羽目になったり、追われたまま時間を忘れたりする。

理性の歯止めが利かない思考は、始終無益である。

犯罪者は、不運にも、下手くそすぎる詩人として世に知られたにすぎない。


本能

無関心は知識の鑑であり、過剰な関心は無知の姿見である。

何においても規則を見出せ。そうすれば、雑念も規則によって消える。

哲学や詩が、本能を追いやったために、知識と経験は乖離してしまった。

「紙の本だと、探したい言葉が本のこのあたりのページに載っていたと思い出せるので、見つけやすいのだよ」
「つまりあなたは、言葉自体を覚えていらっしゃらないのですね」

人の欲とは、分泌欲である。涙でさえ、その痕跡がある。

過去を知るほど、過去よりもずっと多くのことを、安心して信じられる。

敏捷な反応、即興の展開を望む者は、演者であれ、観客であれ、闘牛を観にコロセウムへ行く者にすぎない。

ウェブにない知識などたくさんあることが、あまり知られなくなるだろう。関心も知識への可能性も、限られてしまうだろう。閉じた界隈で盛り上がるだけになるだろう。
閉じた界隈で高まり合うことは、人の知識の性質である。界隈に閉じられた人も、ウェブを閉じた世界だと言う人も、閉じ合っているにすぎない。

雑に扱うとは、棘であしらうことだ。荊の冠は、人の頭脳の永遠の敗北を物語る。


休息

自由とは幸福の休息であり、幸福は義務の中にこそある。

わたしがものを知ろうとする動機は単純です。存在しないものへの恐怖が異常に強いのです。これは、ものを作ろうとする動機にもなっており、ないものを存在させることで安心するのです。

神は、なにもない時でも、なにもないところにも、意味を与えてくれる。そのわけで、信仰のある生活は、逃れようなく有意義になる。

客観とは、想定他者だ。自分を隈なく点検し、ジャッジし評定を下す他者が、精神には常に住んでいる。そんな他者はどこにもいたためしがないが。

その人が自分をどう見ているかで、その人の客観視力の性能も、溺れている主観もわかる。

買い物には熟練した達人もいる。一般にそう思われないが、実は難しく奥が深いことは、日常にさまざまある。
わたしは買い物にこなれるまで30年はかかった。

ものを分からずに使うのは危ういのに、ものの知識がないまま買おうとする。品物、売り方、お金それ自体…。
同じことが日常のあらゆる場面で発生する。人工的なものが増えすぎて、情報も過剰になり、知識に乏しいと生きづらくなっている。

義務が与えられるようになったので、同時に幸福追求の権利を得た。近代の独立革命とは、信仰から法制度が独立した革命であった。


様式

食事はすべての基本、と言われる。その上に生活があるかのように。しかし、本当には、食事がすべてである。食事のために食事がある。食事の上にある生活は、どれも贅沢な余剰にすぎない。

ライフスタイルというのはひとつのコピーにすぎない。わたしの様式が人から見たらスタイルに見える、それだけのことだ。誰かのスタイルそのものになることは、誰にもできない。もし何らかのスタイルになりたいと自分を崩す人がいたら、学習目的でなければ何だろう。
わたしは、自覚したら崩したいと反射的に考えてしまう。完成の状態を生きる苦しさを何度も体験したからだ。完成を尊ばれるより、未完成のままに置いておきたい。今は完成の上にさらに積むことを覚えたので、とても完成しない。

わたしが考えなくてはならないのは、新奇でふわついた分かれない言葉が、この世にたくさん浮遊しているからである。社会がそれらで構成されているように思われるからである。信仰が撹乱されるほどである。
わたしはそれらから距離を取るために、本質的価値を見定める行為に入った。これがわたしが考える唯一の目的である。

世の中に生前何の意味も実績も残さないほど、生の意義を獲得する、という契約が、敬虔さの本道である。

信仰がなければ、世の中のすべてが楽になる。それは当然のことだ。信仰は世の中のすべてを憎み避けるのだから、それがないのなら。
敵に迎合するのが捕虜にとって楽なだけだ。それを平和主義と言い張ったって、人の耳には良いだろう。

すべてふらふらした思考に、信仰が楔を刺す。迷える道を絶えず幻想とし、ただ道を進むことを教える。

イエスを敵にすることができなくては、イエスの価値も愛すこともかなわないだろう。

この世的なものを憎まない思考はすべて、どんなに飾っても、凡そ醜い。


善意

本当の性急さは、善意からくる。すなわち、悪意を抱かせたものに対する迅速な処置。

自分の人への姿勢は、自分への態度で決まる。わたしは、放縦や虚脱より、自分との闘いを好む。自分と闘うなら、人に戦いを挑む必要がない。
聖戦は、余程の世界危機のために温存しておくべきものである。

思想をその人のものにしたのは、必ず、その人の力によってではない。独力で構築した思想は、どこか浮ついているものだ。

昔は、ものを知っていることが、神に反するくらい恥ずかしいことだった。今はその感覚がすっかり失われたため、表現から知を隠す目的が消えてしまった。

現代的な、あまりに人間的な問い。
「ソクラテスが下手物だと思わせるには、どのような革命の下準備が必要だろうか」

教育する者の犠牲。わからない人に照準を合わせたがために、いくら教え語ってもわかることがなく、わかる本人が何もかも失うがままに老いてしまった。
その人こそ、真の教育者であった。

「思想を表明しなくてはならないとは、なんという時代だ!」


愚鈍

哲学する必要があるほど、それだけ愚鈍だったということだ。自分を立て直す必要があったのだから。

哲学して強くなってしまうより、信仰の純粋な弱さを生きるほうが、断然賢い。

哲学は軽蔑して然るべき、とも思えないなら、哲学について無知でなければ、信仰もなく愚かである。

筋肉を鍛えれば、その分、食べないと痩せ細ってしまうように、晩年になって知識を捨てる者がある。

情報に関する過失について謝る、という商習慣は、見えない相手の苛立ちや不安を想定させるために、心も人もおおらかでいられなくし、社会が歪む源となった。

起源は現象の歴史であり、歴史によって現象から脱却できる。

現代の進歩を辿り得た人だけが、現代を嘲笑せずに済む。

退路を断つことは、怠惰なままに本気で取り組むためのひとつの方法である。


誠実

作ったことがないものを知らないと言えるのは、誠実さの表れである。

言葉が現実を作る。ゆえに、詩想はまず言葉を必要としなかった。

嘘吐きは、ないことを欲さなくてはならなくなるので、次第に泥棒に似てくる。泥棒は、しばしば、物品よりも観念を欲したがる。

涙多き人に、目薬は不要である。

「思いに多様性なんか無いんだよ。思いを複雑にしたい人が勝手に難しくしてるだけなんだよ。思いなんてのはいつも決まってるんだよ」
人と通じ合う人は、いつもこう弁えている。

人に好かれず悩む人がいれば、人に好かれるのを避ける人もいる。人になぜ好かれなければならないのか、と真剣に悩む人もいる。

わたしが信用できた人物は、生活感のある人だった。その生活がどんなに貧しくとも、富んでいようとも、信仰のあるなしに関わらず。己の生活もままならないような、生活を信用していない人物を、わたしは信用しない。

人に善悪はない。あるのは欲の多寡だけだ。悪とは欲の結果だ。


脱自

簡単な思考実験。
街を歩いて、見かける家々や舗装や信号看板を、わたしのものかと問えば、違う、わたしのものでない。それらすべてをわたしは作れないし、管理すらできない。しかし、それらはそこに存在しているのだから、この世界にはわたし以外の人たちが存在生活している。
以上の糸口から独我論は破綻しうる。

あなたが買わなくたって、誰かが買うのだから、あなたが買わなくたっていい。その誰かが存在しない場合まで考える責務など、あなたにはない。と寛容な地球は宣言した。

表現の製造には、知性と涙が各様にそれぞれ適度に必要である。滋養のある乾物は、水分で潤されて育ち、陽の光で干し、海の塩で引き締めてできている。

哲学的に正しい主張は存在しない。主張は、主張した人自身が学びを求めている主題である。議論とは学び合いである。もし永久に正しい哲学的主張が存在するとしたら、人間の知性の無力さを示す命題だろう。

疲憊した時に身体に残存する思考が、わたしの確かな一面であろうから、それを無理に変えようとしないことにした、人間なのだ、多少頑固な面もあってよいのだろう、と。
翌日は、残存していた思考から始まった。

快楽ばかりでは良くない。足した苦こそ心の平安をもたらす。快楽は中毒になる。煩悩は快から生じる。世をすべて快楽のないもの、とみるところにこそ、悟りは始まる。
すべてを苦難とせよ。永続する苦難を与えられたなら、与えた神に感謝せよ。苦難を知らない者も世には大勢いる。彼らはすでに快楽に恵まれてしまっている。人間の罪を感謝せよ。罪人たることを喜びなさい。

宗教改革以降も教会から離された知識人は多くいた。教会を、聖書の真理を実現するほどの完全な場所と思いすぎていたのだろう。

眼を閉じて眉を顰める時。すなわち、自我を磔刑に処す時間。


目的

古典的作品を読んでいて、自分の思いや考えがあまりに違うと感じた時は気をつけたい。人の道から外れているおそれがあるからだ。余程時代が変わってしまったのでなければ。

多様とは、人は昔から何も変わっていない、と認識する前の人たちのことで、彼らは変化した人だと思いたいので多様を標榜するにすぎない。

不良とは、己の快楽を最大化させることしか考えない輩だ。知りたい考えたいだけの不良は知的不良だし、それで表現に優れるなら不良芸術家だ。苦を知らないか顧みないうちは、人間の本物を決して知れないだろう。

快楽を求めるから苦を避けようとして悩むのです。苦を得れば満足して心が平静になるものです。

人は苦しみからでなく、快楽の枯渇によって自殺する。

人は何のために生きるか。達成したら終わってしまうことのためでなく、永続するもののために生きたい。
信仰と希望と愛は、永遠によって永続が保証されている。

心の傷は、真理の傷に変換できれば、感謝を伴って癒えるものです。


苛立

自分のことを話すと疲弊し、人のことを考えると苛立ちがちである。

考えないから、時間がないのだ。ものも時間も、考えずに買って済ますと、さらに買い続ける羽目になる。
考えることは、実に多くあるものだ。

人に良かれと思ってする行いに欠けているのは、人に希望を与えてしまうことだ。人に対し、意図せずとも権力を優位に持ってしまうのだ。人と平等に関わりたければ、その人に希望を与えないことだ。もちろん恐怖も与えないこと。

褒めてくる人には警戒している。注意してくれる人を大切にしている。
つまり、自分ができるとの思いには警戒している。自分は常識を知らないんだとの思いを大切にしている。反省できるからである。

近代では、個人の自由を保障する代わりに、個人の品性も生活も、個人の問題としたのである。

この現代社会にあって、複雑さと豊かさは、外部においては似たような意味を持つ。昔の人が自然の複雑さを熟知していたように。しかし、人の内部においては、複雑さはむしろ苦しみと結ばれている。単純明快なとき、豊かさを感じる。これを外部においても実践する人は増えている。

心安らかな老後は、思考を鍛えた証明である。


賢者

してはいけないことをした人、または死を知った人のことを、人は賢者と呼ぶ。

死の覚悟をもってした経験が、賢さの原点である。

蜘蛛も、ここからそこへ糸が張れると思わなければ、どんな壮大で美しい巣も作ろうとはしない。

善悪を知るようになることと、神をおそれることは、本来は心に同時に生じた意味だった。

この世はわたしの生きるかぎりのところ。この世の終わりはわたしの死のとき。
この世は常に一人称である。

世界になぜものが存在するか、あまりに広く厖大で、それを知り尽くそうとするのは過剰な思いかもしれない。元来、人は風の前の土塵に等しい。

ものを言う時は、荊の冠を被せよ。すなわち、頭が大事な時ほど、その前に頭を軽蔑せよ。


意味

自分でここをもっとこうしたい、これはこうであればいい、こうしてしまおう。は、まだ意味ではない。
あるものがこうであり、こうであってよかった、こうであることで、こうすることやこうであることができる。には、意味が生まれている。

自分の中で自明でなく、理解できにくいにもかかわらず、他人や社会にとっては当然の常識として過ぎている事柄を知るのは意味がある。自分も人間だったと気づくだろう。

意味が与えられるから、記憶から認識ができる。意味のない記憶がどんなに豊かであっても、そこから何も知ることはできない。

哲学に学ぶ者は不幸であるのかもしれないが、哲学によってしか修復できないほどの不幸が存在する。

現実的には、苦しみの苦痛があるか、全くないかである。全くないときにだけ、快楽を享受できる。現実に飽きたとき、人は期待する。

力、富、性、情報。これらを行うことによって苦痛は生まれない。しかし、苦痛を知らない者が、人の苦痛を減らすことなど、どうして考え得よう。
苦痛の生じない快楽に対しては、過剰とならないよう、自制警戒するしかない。

スーパーマーケットは、人間の原始的な喜びが得られる。買えることの意味を確認できる。

自分と関係がある、と思える勉強は何でも楽しくできる。
わたしは、文学だけは、自分と関係する意味が、結局わからなかった。


抑止

世界共通語は無いべきである。共通の言語を持ったら、人は何によっても止められなくなる。互いに通じなくするという言語本来の機能を失わせる方向でなく、育ち馴染んだ地域の言語を生涯使うほうこそ、言語が分けられた趣旨にかなう。

ヒトラーは、詩篇を読み、自身が悪人に分類されることを痛いほど知った。そして、悪人が罰せられるのは、詩篇にあるように、ユダヤ人が祈るからだ、と知った。ならば、ユダヤ人を捕らえ、生贄として捧げよう、そうすれば、自身を罰するように祈る人間たちに、あらかじめ復讐することができる、と考えた。このように彼は「神が死んだ」ことを根拠にして、自分のその挑戦を闘争と言ったのだ。
愚かさにも程がある。

師は、神は死んだのではないのですか、とのわたしの問いかけに対し、神は死んでもよみがえるお方です、と即答した。その晩、わたしは受洗を決めた。その師からわたしは洗礼を授かった。

もし近代の哲学が、個人に熱狂しただけの浅はかなものであるなら、わたしたちがここまで怠惰を礼賛するようになり、祈らず信仰も持たず互いを思いもしないのは、やはり何かを間違えているからだろう。

革命をわざわざ起こさなくても、文明ごと壊れる時が来ることだろう。

人は完全に理解することができないのだから、世界は常に不完全である。
この完全に用意された世の上に、人間が不完全な層を積み上げた。

世が不完全なのではない。人の作る世界が永久に完全になり得ないだけだ。


規則

わたしは若い頃は無規則主義だった。言語でさえ規則を無視して使っていたため、あまり使えたためしがない。20代に自然法則を理解するようになり、神のつくりたもうた自然に規則があることを美しいと覚えた。そして、信仰を持ってからは、イエスの倫理規則を知るが、従おうとしてもできなかった。教会を一旦離れてからストア派の本に親しみ、心を統制する内的規則が存在することを知った。
今は憲法を学んでいる。ベンサムの法律の原理、国家の存在意義、規則の目的。従う喜びを知りたいと思う。

規則が思想を持たせる。

財産は公共の福祉に役立てるために使うもの、という配分の思想は、所有権をまるで醜いものにした。所有の快楽が、個人のものだけでなく、地域の、街の、国の、人類の、と広がらせ、行き渡らせる義務を理解させた。わたしも移動される人のひとりである、所有の快楽が社会化し、閉ざされた納戸が地球まで開いた。

情報のオープンネスは、元はワイマール憲法153条3項「所有の公共的活用義務」に始まる。21世紀になり、オープンネスはものへ広がり、時間や能力にも適用されている。欠乏と慈悲により、この思想はいずれ「財産の平等」に至るように思われる。

その場で考えることができないので、いつも大抵のことは、あとで考えている。ゆえに、わたしの判断は臨機応変とは言えない。とはいえ、何もなしの行き当たりばったりでなく、あらかじめ大体定まった上で判断している。

無知による過剰、無知による偏りを感じる。知ることで均衡を得られていると感じる。


喪失

才能とは、欠缺を超克しようとする力である。完全な喪失は、完全な個性となるだろう。

連んでいいことあるか。ないと思う。仕事の上でもそうだが、礼儀のない間柄は、本当は大して親しくない仲なのだ。

自分と親しくするのが、結局は重要なことを最も多く得る。人のことばかり見聞きしても、結局は。

自分と親しくしている人はたくさんいるが、自分と親しくしていますと人に言う人はほとんどいない。ゆえに、自分と親しくすることを思いもつかないという人がいる。

わたしは、本を読むのが遅い。本を自分のものにするために時間をかけるから。1日で読み終えた本を覚えていたためしがないのだ。

空気のような存在を挙げてみると、どれも自分が従っていることをいつも意識していないものばかりだ。知らずに常に隷属していることばかりだ。受益とはそういうものだ。

無政府主義とは、世には個人しかいないとみることである。個人に対してはいとも簡単に尊重の姿勢をとるが、集団には猜疑敵愾の念を向けがちで、組織の実在性を信じないところがある。


性質

自分が産まれ出た器官を弄ぶ趣味は無い。

高級さは偏りである。高級なものはそれだけやはり偏っている。だからかつての賢者は質素を愛した。質が重視される時代とは、偏ることを求めさせられる時代でもある。

個性を売り物にする、個性を売るしかなくなった理由とは、情報に新奇性が求められるからにすぎない。だが、本心から新奇な情報を求める人は、それぞれの分野でいつも稀である。

常識を失うことは、知識のほとんどを失うことだ。自分を失うことは、意味のすべてを失うことだ。

今や、知っておくべきことが増えたが、知らなくていいことも増えた。すると、知る自由とは別に、知らないでいる自由もあるはずだ。

素晴らしいと喧伝されるものは、たとえどんなに好ましく思われるものであっても、いずれ暗部が姿を見せる。両手を挙げた称賛には、降参の意味も含まれている。

数多の批判的検討を加えてもびくともしないものだけが主義だ。個性は性質であって、まだ主義ではない。

快楽のうちに死ぬことを望まないように。安らかな最期のためには、苦痛を思い知って生き続けなくてはならない。


放縦

神は、生きる苦しみを与えてくれる。自分をいつも客観的にばしっと言ってくれる。それがなければ、わたしは放縦に流れることしかできないだろう。

善悪の判断は、その人がどれほどの人々の快楽と苦痛を考慮に入れているかで決まる。神は全ての人間の快苦を考慮に入れているので、個人や集団や歴史を超えた判断を常に行う。これを鑑みれば、どんな苦痛も、常により多くの人間の快楽のために生じる。神は常に最善を成すからである。

近代が、苦痛を減らし快楽を最大にする時代だったとすれば、その純度の高い表現であろうモダニズムは、人間にとっての快楽の姿が見えるようだ。
飽きのこない、安心させる、心地よく、使いよく、人に軽蔑されないデザインは、モダニズムが成功させた戦略群である。

過度に同一であることが苦痛なのは、機械的生産や画一消費の経験から連想されるだけでない。差異とは、ただ新奇であるだけの沼的快楽であるが、科学技術と同期相乗したために、産業の無尽の源泉となった。

善悪も、罪も、法律も、話である。それが世界を成立させている話である。

謙遜には理解が伴う。理解していないことを人は謙遜できない。

冗舌に流されるくらいなら、それを無視したって構わない。

男は頭で考えないと話せない。女が場を読むために頭で考えるように。
女はどちらが知恵の実か理解しないままに食べたが、男はこちらが知恵の実だとわかって食べていた。


隷属

女は情報で決める。男は自分の一部のものとして、それに隷属するために決める。

神がいないと思う間は、男は独りでいることを欲し、女は人を助けはしない。

男は女の勧めることを、内容が良いと感じるのでよく聞き従う。しかし、人に勧めない女には、人としての反省がある。

移動と居住は義務ではないが、労働と保全は義務である。これらはいずれも幸福の源泉である。

わたしは結婚して安心した。この安心は今も続いている。家族とする人を探す必要が全くなくなったこと、余計な交際をしなくて済むことは、大きなことだ。

キルケゴールは、婚約の破棄について、「この秘密を知る者は、私の全思想の鍵を得る者である」と書いている。彼のこの秘密は、マタイ19:10-12による。つまり、彼は、恵まれた人だったのだ。

人は快楽しか買わない。苦痛を人に売り続けることも、そこに快楽を覚えなければできないことだ。

快楽を売っていることしかメディアに載っていないので、苦痛を味わうことは尋常でない出来事である、と大袈裟に捉えられるようになってしまった。

苦痛をむしろ求めることは、昔から、恵まれた者の知恵だった。人が快楽に隷属しがちなことをよく知っていたのだ。


礼節

生活が貧窮にある人が、多少礼儀を知らなくても、わたしたちは大目に見るべきである。また、礼儀を知らない人は、何らかの貧しさを覚えて生活していると見ても、的外れではない。

新しい思想家より、古きを温ねる弟子のほうが、しばしば礼儀正しいのは、思想は人に礼節を敷くことだからである。

今はどんな時代か、これからどう生きるべきか、と語れる人は、先代の思想を学び知っている。つまり、人とは何で、どう生きるものかを、熟知している。基本は古典ですでに達せられている。新しい思想とは余程のこと、その中でも重要な思想が出るなら、とんでもない時代なのだ。

批判だけして考えがない人には、対抗しようとしても無駄だ。思いなり本心や代案が腹にあれば、それを尋ね聞く価値もあるが、世の中には批判のためだけの、内容がない輩が存在する。驚くべきことに、表面的なかっこよさか何かだとでも捉えているのかわからない。彼らを何も考えていないと見て去るのが賢人の礼儀だ。

言説を大声で評価しているだけの人よりも、自分の小さな考えを静かに述べる人のほうが、圧倒的に人間らしく存在している。

事実上の軽蔑は、本人の意識なしになされたことにされる。本当の軽蔑は、相手に気づかれないよう、小さな表現でもって言葉に出さずにする。

これ以上払える代償のない真理を心に収めたなら、生きてきた証として大事にするだろう。思ったほど詳しくもなく、全部が鮮明なのでもなく、言葉にすれば単純にしかならないこの経験こそ、心に収まったばかりの真理の姿である。


解釈

言い間違いに気づかないでいるくらいなら、正しく表現できる人が自己懐疑に陥るとでも思え。正しい意味を知る人は、そのゆえに、表現によって意味される候補が増え、正しく解釈したがために話者の意図を捉え違える経験を、何度も積んでいるのだから。

どこででも聞くような言葉で心が伝え合えていることの不思議さを思わずに、何を生きることができよう。

結局のところ、批判とは、逸材が人に恵まれなかったために起こる叫びである。不用意な冗舌は悪口と区別がつかない。

知識を弄ぶなら、その趣味が無礼であっては、深刻な喜劇にしかならない。

芸術家も詩人も、弁論家も衒学者も、まともな人になろうとしなかったか、なれなかった人たちだ。自己を徹底して批評し続ける正統派であっても、人並みの幸福を生きるのは易しくない。

優れた才能のために取り置いてあるご褒美を求めようとしなくて良い。それらは味も栄養も偏りすぎて、日常的な主食になりえないうえに、概しておいしいご馳走と言えるものでない。

神は高いところだけでなく、低いところにも、あまねしところで、姿を見せずにいる。神が何かを知らずに神のようにあることはできない。


卑屈

「わたしを不完全で卑屈な愚か者だ、とみて離れ去った賢明な人々のために、残りの人生を励みたい。」

わたしはあなたとは違うのだ。ただし、突っぱねているのでなく、仕方ないことだよね、というくらいの意味だ。個性は差異の中でも小さなものだ。

学識は、すべてを単純に悪いとも良いともみなさないところに発達する。

標本の数が少ない推論は、検証の結果ではなく、仮説の段階にある。

わたしは何かを知っている、と聞かされてもつまらない。知らないことを教わると、人は考える。つまり、人を謙遜にさせるのは、人の知性でなく真理によってである。

自分を点検するほど、内外に注意が行きわたるので、会う人も自然と絞られる。

時代を速くしているものほど、人が個人の時間を誠実にかけて考え出されたものである。ゆっくり盤上の駒を動かす王のように。

自分から、遅らせ、悲しませ、苦しませるものを完全に排除しようとするうちは、いくら考えても創造性とは凡そ無縁だろう。


静観

天才とは、今がどのような時代か知らせてくれる存在であるが、必ずしも人間としては見られず、心ある人からむしろあわれな存在として眼差される。

哲学や文学の価値を認めない人がいるように、科学からいかに離れていられるかを考えて暮らしている人もいる。ただ知らないだけでなく、よく知って考えた上でそうしている。このような外郭の賢人たちのことを、どの団体に所属していても想定したい。しかも、できるだけ多く。

賢人は静かだ。わたしは過度に関わらない、と静観する。人間の限度を弁えることは、ひとつの分別である。

意見に堅固さを認める場合、信奉したくなるが、次第に、その旗幟が滑らかな風に靡いている光景を見とめるだろう。

堅固な意見は存在しない。仮に存在するのであれば、それはすでに広く認められた真理であろうから。

夢中や没頭は、その最中は過剰になり、大事なことさえ置き去りにされる。そこから脱け出た後の効能によって、満足と後悔の天秤にかけられる。

もし人類の知が一晩で総浚いできるなら、誰も悩んで考え抜く習慣を持たなかっただろう。


侵食

労働に、興味や情熱を持てるのは良いことだ。奴隷のように生活を蝕まれない限りにおいて。

どんな刺激も、消化しきれるものなのか、侵されてしまうものなのか、受けてみなければわからない。興味や好奇心は、防ぐ当てにはならない。すべて活動は、自分の身体を防御することを目的とする。

社会の目指すところは、物の欠乏がないことでなく、心に欠乏感がないことである。

悪人も、生きるのに必死なために仕方なく加担している人間にすぎない。

立場とは役柄であり身分ではない。

自分という人間についてはよく知っていても、人を直ちに嫌い非難拒否するのでは、人間について知っていることにならない。

嫌いな人のことは、時間をかけてゆっくり嫌うものだ。すぐに嫌えるなら、本当は大層好きかもしれないではないか。

守るべきものを増やすことは、明らかに、苦痛を受け続けることによる快楽に分類される。


退屈

定点で人波を観察するとよくわかるが、早く過ぎ去る人が多い時間と、ゆっくりのんびりと歩く人からなる時間が、1日のうちには同居している。ここからわかるのは、自分の気分が変わると街が変わったように見えるのは、出かける時刻が変わったことにもよる、ということである。同じように、社会の日常は成っている。

現代人には知られるようになったが、昔の貴族たちは大層退屈な生活を強いられたのだ。神に反し、しかも務めを放棄してまで文化を作ったほどだったのだから。

ルネサンスの本懐は、人間性の復興という名の下の、退屈からの解放であった。

貴族趣味とは、つまらない部分にしか耐えられなくなるほど、退屈を強いられた人間性のことだ。

退屈なものでも面白がれるなら、高尚な趣味である。

思いつきのように見える作品は、大抵は論理的に作られているが、その論理が明らかにならないものは、後世に残っても引き継ぐ者が現れない。

現代の研究の困難は、退屈がますます確保不能になってしまったことによる。研究者にまず与えられるべきは何よりもまず退屈であり、研究者は退屈を紛らせるすべてのものを排除することに徹するべきである。


方針

死後に遺すか、生前に出版するか、限られた人だけに伝えるか、大袈裟に宣伝するか、選択するのも、その思想と人生の方針である。

なんでも言える立場を維持することを考える前に、言わないことについて方針を立てると、立場が立てやすい。

己の全てを明かす時期は、よく考えるべきである。一生に一度で済ませる人、秘密を貫く人もあれば、死ぬまで明かし続けて過ごす人もいる。

想像力は、理性に指導されなければ、自分に従い暴れがちである。想像することは本来、全て自然の中にある。

一般性を合理性と結びつけると、自己正当化しか導けない。人が個人的に求めるべきは、永遠性である。永遠性を求めて人は旅する。一般的な旅など存在できない。

破門や異端としてとても取り扱えなくなった教徒が、天への細い道を新たに見つけ後世に示してくれたこともあった。

各人に外見が愛らしく与えられたのは、自我を敵と不正で塗しすぎないためである。

善、幸福、命は、自分のものを誰よりも好いて良い。そうしなければ、人のそれらを上から見下すしかなくなる。


注油

油を差して回るようになった歯車を、さらに手入れする人はいない。

どんな食材も、調理しなければ、固くて汚れた重荷にすぎない。自然に従って料理する人もあれば、自分好みに味つけてしまう人もある。

頭のために油を摂れば、さらに頭を苦しめない。その分、身体を働かせ、汗をかく代わりに血を保たせてもらえる。

万物の尺度は、凡庸さである。

夢を持つ動機が、退屈さのためでなかったら、今の時代は大変な苦しみを強いられるだろう。どんな趣味も、退屈さのあまりに生まれている。

涙で洗われ、光で乾かされた後に、油が注がれたなら、錆びつくことはない。


論理

論理に欠落がある場合も、論理的に過剰な場合もある。

物理的には論理的であることが全てなので、自然は空想を許さない、と考え知ったものだった。ただ、今となっては、自然よりも自由ではあるが美しくはないこの心の働きを重んじるようになった。

仮に、神の造作した世界が全て論理的であり、その論理を完全に知ったとする。そして、空想の余地なく世界を認識し、考えたとおりに操作制作できたとして、果たしてその人は人の心を何だと理解するだろうか。

粗末な考えでも自然を扱えるのだから、自然は人の心より遥かに寛大だ。

自我とは、世界に埋め込まれながらも、そこから独立した力学系を成したいと欲し続ける罪の働きである。

世界を理解したいのであれば、内外を論理的に正しく認識し尽くすべきである。つまり、理解するだけでは決して満足できず、生きる意味を得ることもないのである。

存在論的無の存在は、その必要性と併せて証明されて然るべきである。それは同時に人間性の証明となるだろう。

結論が出ている問題など、そうそうない。問題は次々に見つかり、作り出されるからだ。定説とは、問題が多く含まれている足場にすぎない。


印象

もし今〇〇であるなら、〇〇らしく振る舞う、というのは誤りになる。〇〇らしくなりたいのなら、より〇〇にならなくてはならないだろう。

おそらく、ほとんどの詩人や哲学者は、憧れからでなく、必要性から思索を始める。

世界の差別の原因を探ると、すべて聖書解釈に辿り着くように思える。かといって当然、聖書を無視してはならない。原典の箇所を、人間性を視点に据えずに読まれなくてはならない。聖書を自分の人間観に寄せすぎている、と常に自戒すること。

心の貧しい人。これだけで、百の印象がありうる。言葉の意味が確定しないことを、イエスは始めに告げた。

数学には限界がある。人間性に限度があるからである。

無神論とは、努力を創造し、自信を模造することで、自分の力という幻想を捏造してしまう思想である。これによっては、自身を全面肯定することが、永久にできなくなる。自分自身を全肯定するのは、自分ではない。

批判に敏感すぎる人は、十中八九、神のいない人である。


分限

自分の分け前以上を求めて努力するくらいなら、何もしないほうが遥かに優っている。

過度な努力によって身につけた能力は、将来に他人や自分を傷つける武力になるから、気をつけなさい。

武力とは、分限を超えて獲得できてしまった力である。

どんな種類であれ、分限を超えた力は、人を傷つけるために、失えない欠点である。

傲慢さがいけないのは、劣等感を抱かせ、努力をさせ、結果的にその人を傲慢にしてしまえるからである。

エリート意識とは、過度な努力による分限の再定義であり、自己正当化の一種にすぎない。

分限を超えようとすることは、時代の洗脳にすぎず、決して美徳にはならない。

優れた人は、しばしば、自分で抑制が効かない。

反省することは誰でもできる。失敗を失敗と認めるようになる頃から、人は幸福になる。


視点

異なる視点の中には、中核が見えていないことによるものがある。

プライドは、自覚するほど低くなる。プライドの自覚がない人は、自分がいない人である。

心の中の全てを周りの人が聞いていると思っていれば、悪事のほとんどは防げると思う。

人の心を動かさない言葉ばかり使っていては、自分も動けないものだ。

心も肥え太る。

神がいつも見守ってくださる。わたしの悪事のすべて、心の悪意のすべてをも。

人の言葉はすべて娯楽である、信仰が本道の人にとっては。


胃腸

胃が満足すれば、食べ過ぎない。腸は疲れるまで満足できない。

腹は頭に、胃は心につながっている。腹は空っぽを嫌がり、胃は空であるときだけ休まる。

腹が痛いのは単に貪欲の結果。胃が痛むときはまともな性質が叫んでいるとき。

胃がまず受け取ったものを消化する。腸の調子が悪いのなら、胃がそれ以上に危うい状態にあるだろう。

休みたいときには、腸を騙すのではなく、胃を空にすれば、飲み食いに依存しなくて済む。

どんな料理も、質だけ重んじても、量に鈍感なら、胃をもたれさせる。

胃の喜びは、腸の快楽より、はるかに繊細なものである。

腹で生きるな、胃を大事に生かせ。


分別

自分の分別に従うと、曲がりくねった道を迷いたがる。人の分別に従うと、自分の歩む道でなくなる。道を作ったのは人ではないからである。

批判による減速を無視し、賞賛による加速を求めて走れば、いずれ曲がり角で転落する。

自分の墓場まで自分で作っても、自分が収まるところを指定することはできない。

自己評価の甘い人がある。評価は人がつけるもの、と厳しくつける人もある。だが、人は本当の裁き主ではない。

箴言で笑う人たれ。

自分を嗤っているうちは人に笑われる。

脳が終わりを求めるなら、すべて休断したらいい。そうすれば、脳は心に負けるだろう。


名誉

夢は叶えば消えます。叶って残ったものを大切にするために、人は夢を持つのです。

賞賛ばかりなのは、大きな失敗かもしれない。本当のところは、後になってわかるだろう。

有名による稼ぎは、悪事や失策が知れ渡る前の保険である。

一度も失敗できない人生に、無知を知る喜びなどあるだろうか。

知性に重きを置かず、成功や失敗にも無頓着な生き方がある。

有名な名誉を求めるほど世俗的になる。

子供がわかることしか聞いていないように、耳の聞こえにくさと理解の拒否は等しい場合がある。

聞いても理解しないことは、老いた賢人の処世術である。


読書

個人的なものと神的なものとを見分けることこそ、読書の始めの目標である。

本をたくさん持っているほど恥ずかしい。並んだ背表紙は、自分で考えもできなかった事柄の一覧である。

言葉だけ並んでいるから、言葉だけですべて語れるとの考えは、無知や不幸に陥りがちである。知識が心を照らすとき、真理が救い、人を自由にする。

人の言葉をたくさん投げかけられて、困って自分でも似たような言葉を探して書きつけたのを、また別の人が自身にたくさん投げつける。

引き合わせれば狭くなり、本当に広い世界が見える。

愚か者が残した言葉を、なぜこう言わざるを得なかったか、と考えるのは賢人の趣味である。批判されるのは、まだ愚かなところがある、という意味である。

速く読んでも、伝えるものを受け取れなければ、本の存在ごと忘れるものだ。


濃縮

中身のない才能も、濃縮したら、無尽蔵に泡を生めるかもしれない。

疑い、否定、後悔。悲しみの涙は、その分、心が濃縮された証である。

空想を現実にできてしまうから、真実が薄まってしまった。

若くして一流を知るのは不幸だ。老年になっても一流を知らないのは不幸だ。

知識は、悲しみから解放されるためにあるので、導き手が必要である。独りでは干上がってしまうだろう。

個性は無限にない。両手で数えられるくらいの性質が雑多に混ざった違いであるにすぎない。

自分はこう思う、をいくら濃縮しても、現にそうである、にはならない。思いが現実になるのは、思う人の周りとその道だけで、それが世界を動かすと考えるのは壮大迂遠な計画である。

自分の思いを信じすぎる人は、単に生活環が狭い人である。


飽和

知らないからといって、知りたいのではない。知らなくてよいなら知らずに済ませたいことなど、たくさんあるのだから。

知って後悔することを多く体験するにつれ、敢えて知ろうとも思わなくなる。知らなくても推して知れることで満足する。

感想は、共有するのでなく、語り合うだけのものだ。議論はそこから。対話するほどの内容なら、わたしは離れよう。

感想を述べることが楽しいと思わない人々も、世には多いものだ。共感を求めない人も、共感することに疲れきっている人も少なくない。それでも思いを述べるなら、どのように述べるか考えるだろう。

思いが団結と対立を引き起こすなら、その思いはどんな形であれ、爆薬だ。

思いは心にしまうだけのもので、四角い箱に詰めて蓋をしておくのがよい。思いをそのままにしておくと変形増幅することがあるから。

思いは反応しやすい。単純所持しているのは危険なことだと心得よう。


沈黙

思ったことを口にすることが良しとされる社会は、どこか生きにくい。思いはぶつかるものだから。

思いは小箱にしまっておこう。どこにしまったか忘れても良いのだ、思いよりも大事なことのために生きていこう。

意見を持たない幸福を、政治や教育では忘れがちである。意見を求めることで、善良な性質を損なうことがある。心すべきである。

対話して得られるのは力にすぎず、沈黙を保つことが逆に難しくなる。情が入るからである。

沈黙が生活のほとんどである人と、沈黙を生活からほとんど追い出している人とが、隣の家に暮らしている。その隣人を自分のように愛しなさい。

冗舌多弁は、生来の性質だけでなく、文明の結果でもあろう。だが、長い沈黙が許されるのもまた、文明の産物でもあろう。アイデア至上主義は一種の熱病で、周囲の環境を汚して呆然とされる。

言葉を豊かにする幸福があれば、沈黙のうちにある幸福もある。騒擾はいずれをも撹乱するだけで、沈黙とは付き合えないのである。

人の精神は、結局は、沈黙を勝ち取るために働く。言葉のほとんどはそうして生まれてきた。沈黙と付き合えない人間は未熟である。


新奇

考えるべきことを考えてきた人は、それほど考えずに済むものである。

突飛なことや奇想天外なことばかり追う人は、自身で新しいことを完全に成し遂げでもしない限り、常識を獲得できない。

今や、個人で個性を語るよりも、常識を言葉で語る人が必要だ。個人の考えを求めさせ、個人を過度に悩ませる時代は良くない。

個性を商品にできる仕事は、現代にあっても限られており、むしろ広がっているように見せているだけである。

個性を発揮した人を称揚しすぎて、皆が個性を求める一方、賢者たちは個性を買って利用し尽くす。悪賢い人も同じだが。

生きていくために、人間とは何か、と問い続けなくてはならない時代に、沈黙や最小限を必要とするのは常識的な判断である。問いを持った時点で、そう多くの言葉や物を、すでに必要としなくなるからである。

これから多くの言葉や物を持とうと思わせるには、まず数倍の体積の脳と腸を持ちたいと欲させなくてはならないだろう。

いらないもの、忘れて管理できないもののために、経済は回ってしまう。必要主義は経済を縮めるが、新奇主義よりもはるかに大人しい。

新しいことを敢えて追求しなくても、眠って待てば新しい朝は来る。


疲労

疲労が賢さを作る。

思想で作れるのは、休みのない世界だけである。

葦は群生しているが、ひとくきに整え立っていて、互いに取り合わない。ほかの土から若い芽を出す頃には、すでに水辺を包んでいる。

手近な正しさ。人間の捉え得る正しさは、卑近なものにすぎないかもしれない。与えられた正しさが、考え得た正しさを訂正するのだから。

近代の科学革命、労働運動、政治経済の求めたのは、結局のところ、あらゆる快適さだった。そこで、快適さが果たされた次には、その維持しか、さして重要ではなくなった。

死んだと言われる物事は、動けないように見えて、大抵のものは、根を張って息づいている。

活動計画に織り込む必要があるのは、なによりも疲労予定である。


悲惨

戦争は人間の悲惨さを理解させる意味で偉大な表現だが、過剰に悲惨であるために、醜悪愚劣にすぎて憎まざるを得ない行為である。

人間が悲惨な存在であると知っていれば、わざわざ戦争を起こす必要はない。

人生が悲惨さからかけ離れたように見える人ほど、人間の悲惨さを理解していることは称えられるべきだと感じる。

褒められることに耐えてそれを逸らす技術は、悲惨さを生きる上で有効な処世術である。

論理的に人間を全て解明できたときに、残るのが、悲惨さである。

喜劇も悲劇も、悲惨さから発生するが、それゆえ作るとなると、喜劇のほうが難度が高く、かつ短くなりがちである。

悲惨さゆえ、という前提がなければ、人間は特段素晴らしい存在でもない。悲惨さの理解がなければ、人間は特段素晴らしく存在できはしない。悲惨な存在が、その自らの力だけで豊かさを求めても、惨めさがどこまでも付きまとう。

人間の悲惨さを理解し始めると、特定の人を理解したいと思わなくても、人を理解するようになる。

「わたしを理解してほしいの」
「何を」
「(わたしが悲惨な人間であることを)」


欠点

欠点は見る人によって違うので、欠点を指摘されたらその人のものの見方も窺ってよい。

欠点を自覚していることも、ひとつの欠点になる。

もし世界に自分ひとりで暮らしていたら、自分に欠点など必要ないだろう。

自分の欠点を知っていることは、ひとりで生きていないことの証である。

苦痛が何もない信仰があるとすれば、それは確実に、信仰者の勘違いであり、それは確実に、自身を危うくする。

考え方を形容するときは、敬意でなくてはならない。決して侮ったり軽んじてはならない。思想と人は分かちがたい。

積んできた教養や経験の違いが人を分かつことがあっても、それらは変化できないのだから、分かれたら諦めて離れるしかない。

欠点は意図して作れるものでなく、持たされるものであるから、誰を責めても解決するものでない。


世話

自分の世話ができる人は、人の世話を余裕を持ってできる。自分の問題が解決され切れば、人の問題も簡単になる。

騙してくる人を騙せるくらい、惑わす人を惑わせるくらいでよい。

普段、自分を世話する仕方と、人を世話する仕方は必ずしも同じでない。自分に馴染む仕方で世話すると、自力が出なくて良い。

合わないと言ってわたしから去る人は、必ず、わたしより高い教養を持っている。わたしと別種の洗練された教養を。

教養や経験は人を異ならせる。しかし、その異ならせるものによってしか、人は人を理解できない。理解できる内容や手段がなければ、そもそも理解すらしないからである。

知恵がなくては、才能とはみなされない。

普段休んでいる時には、思考などわざわざいらないが、出先や買い物で行動していて咄嗟の判断が必要な時に限って、普段から思考しておいたことが活きる。

普段、思考はいらないが、普段でない時には必ず思考を使うことになる。つまり、前もって考えておくことは知恵の基本である。


知恵

日本は、特に現代になると、人を知恵で見なくなり、単に個性を否定しないものとして見るようになった。人を導けなくなったどころか、懲らしめる人も知恵を授けられる人も、珍しくなってしまった。

近代の論理を組み合わせ、金科玉条のように語ることが教育の全てになってしまった。現代社会がこのような仕組みで動いているとしても、それが理想郷だと誰が思っているのだろう。

古代の知恵を聞くと、今の知識が失ったものがあまりに多いことがわかる。科学的にわかることが多くなったことで生きやすくはなったが、人々が知恵を不要とすることによって、痛みや悩みや苦痛をそもそも持つ機会を消しているように思える。

古代の労苦が消えたので知恵も減ったとしたら、知性の不平等は、単に知識の深さでしかない。しかし、現代でも、知恵によって人は生きるのだ。

知恵を語る人は知識を生むので、従う人がたくさん現れる。しかし、知恵の人の労苦は、誰もわかることがない。研究の本懐は、好奇心の追求や興奮の追求でない。

知識に簡単に触れられることで、知恵の聞き方がわからない人が増えた。聞く耳を持つだけでも、長い鍛錬が必要になってしまった。

新しくしたい人や、変化を求めたり変えようとする人と、わたしはもう付き合わない。その人は商人であって、友人になれそうもない。


生活

昭和では、生活を犠牲にすることが美徳だった。平成では、生活を大事にしない人は信用されなくなった。令和では、生活がままならない人は、どんな地位や取り柄があったとて見向きもされない。

人の心に響くのは、結局は、純粋さである。単純なものは若者に受ける。純度に愛や苦悩が混じってくると、老年になっても惹かれて涙する。

両親に自分の人生の成功をすべて見せることができた人は、ひょっとすると、自分の人生を生きようと充分には考えてこなかった人かもしれない。

良い教育とは、暇を理解させ、退屈を通して文化を学ぶものであるだろう。この世で知られ広まる優れたものは、推し並べて、大いなる暇が生んだものなのだから。

収入源を作り、生活を整え、健康を回復したら、あとは暇を楽しむだけだ。という人生観は、決して非常識でなく、それどころか、むしろとても好ましい。

引っ込み思案は、考えの純度を上げる最も正統な方法である。

考えたことを書き残そうと思うか、実際に書き残さないと、考えは残らず失われる。それで、書く人は、書かれたことが、書いた人の考えのすべてでないことを、容易に理解する。


難解

新しいことを言おうとすると、言葉が難しくなりがちである。

歴史に残る古典は、読んでみると難しくなく、むしろ大変重要なことを教えられる。巷に出ている難しい本で、読んでも難しいものは、本当は価値が低いだけかもしれない。

難しいものを好む人は、新しいことを考案している最中だとみて差し支えない。

難しい言葉が真理に触れれば純粋な表現に変わる。それこそが本物の考えだ。

歴史に包まれるとき、1人ではなく大波の中の1人になる。歴史が無いとき、未来の大勢の初めの1人になる。

嫌われるのも好かれるのも、人は生活で人を見るからである。共に暮らせそうな人を好むものである。人に嫌われている人は、生活が乱れ崩れているものである。

賢者の言葉を覚えて従うだけの人と、その意味もよく理解して生活に活用している人がいる。

難解な本は、面白くないと断定されるためよりも、敬遠されるためにあまり読まれない。


節度

女性が慎むのは、エデンの園での出来事のゆえであるが、今では様々な理由から慎もうと心がける女性がいる。

物を買うことが安易なことだ、と一度でも認識しないうちは、生活は決して整わない。

誰が作ったか関係ない、という人は、自分が手に入れた物事を誇ることがなく、権威を作ることもしない。

耳に痛い言葉を聞けば、眠気からも覚める。

言葉だけ威勢がよく、生活に適用しない愚かさ。神の威を借る狐狸。

聖書の言葉が多いほど、自身の思いを多く謹むほど、説教は良く語る。

世にある物事を否定すると、世から浮きがちである。しかし、見分けると、世に在りながらも、世から離れられる。


晩成

白檀は、ある時から周りを頼ることで延命したために、老いてからのほうが芳しい。

自分の持てるものを何でも売ろうとする人と、持ち物を大いに余らせて売り出さずに済む人がいる。

洋服は形の取り方が力強いので、力みを抜いて着こなさないと、肉付きや骨格を負かせてしまう。

周囲を見てばかりの人は、身体の意識を普段から忘れて生きている。悩むばかりの子供も、内面は身体から遊離している。

内面は、まだ内観ではない。

泣いては歌えない。つまり、神は歌を喜びの表現とした。

仏教から学ぶのは、たとえ全ての意識を捨てても、人として、神への意識を捨ててはならないということだ。

遺伝か環境か。赤ちゃんの頃からそうでなければ、環境つまり生活習慣の影響のほうが、どんなことにおいても大きい。ゆえに、人を見ればどれほど生活を信用しているかわかる。


自死

自死も殺人である。たとえ自身のみだったとしても。

快楽の先にある死は、完全に空想上のものだ。死の前には必ず予想だにしない激しい苦痛が訪れる。

人は、想像しているよりはるかに大きな苦痛を受けた上でないと、死ねない。心身の債務整理をあらかじめつけておけば、少しは心安く迎えられるのだろう。

死ねば楽になる、との考えは、机上の空論の中でも、最も悲惨なものである。

精神は脆いものだが、身体こそ、はるかに頑健にできている。身体の中で最も複雑で手に負えないのが、脳である。

身体に内蔵された神の設計意図とは、誰にもそれを思っていたほど読み解かせない、ということである。

死欲からの完全な解放は、最も基本的な経験を与える。


中毒

知識や情報を商業化しなければならない事情を理解すれば、言論にそれほど扇動されなくなる。

情報が無料になったが、それが愚劣になったと思われるまでは、学費は高騰し続けるだろう。

より良い生活とは、心身の改善につながるものであって、外の世界の物を欲するようなことでない。

特定の人工的主義で世界観を固めている人は、商業のためでなければ、視野の可能性を取り去られている点で、惨めである。

一定の規律を教えたら、それを休むことも教えたい。それを破ることではなく。

世から離れ去りたいと望む人が、世と結びつかなくてはならないと悟った時に、同時に芸術という方法が発明された。

成功は、そう長くは体験できないために、記憶の中に求めるしかなく、この点で成功は心の傷に似ている。

励ましも、神に悖る内容を意味していれば、自分を罪に定めるだけだ。

普通に生活できる時代に、普通が無くなっているとしたら、とんでもなく不幸なことだと思う。


表情

頬の豊かさは、喜びの多い人生を物語っている。

顔は、思考の習慣や生活次第で変わるものです。もしなりたい顔の人がいれば、その人の考え方をこそ学び、生活に取り入れなさい。そうすれば、自然と似てくるものです。安易に形を変える選択をするのはよしなさい。

悲嘆は、まだ知らないよい知恵に出会えば、自然と癒えるものです。

良い顔と美しい顔は、別種のものである。良い顔は誰にも可能であり、人としてそうなるべきだが、美しい顔は、物として美しいだけである。

昔は、クッキーでなく、その愛情を食べていたので、クッキーを食べ過ぎることは稀だった。

心や身体をそのままでいるために、あまりお金や情報を必要としない人と、大量の物や知識を求めてしまう人とで、格差が生じる。

苦痛が混じると、顔は良くなる。快楽だけでできた顔はつまらない。


永遠

一時的な思いを恒久のものにすると、後悔が募る。幸福な結婚は、永遠の判断に基づいている。

新しい状況に身を置かずに済むなら、それだけ物心の財産を引き継いだということである。

人工物のデザインは、機能上の捨象からなっている。葉一枚を作ることも解明し尽くすことも、人にはできない。

西洋の哲学書は、聖書の副読本である。

生き急ぐ時代は、とうに終わった。今はいかに引き延ばすか、が知恵の主流である。

人が結論を下せるのは、真理と結びついた場合だけである。

鳥や蜂の憩う森では、毛虫が食い尽くされる。

お金には手垢が付いていて汚く見えるが、交換できるものは人として尊ぶべきものばかりだ。

聖書の言葉に従えば、人の言葉に従いすぎずに済む。


吸殻

人の呟きを聞いても、呟きすぎても、身を持ち崩しやすい。

賢人を楽しませることも、愚かすぎる者を導くことも、常に最上級の難題である。

己の弱さを、太い人は喜びで満たそうとした。酒呑は忘れたいと望んだ。喫煙者は和らげたかった。誰にとっても心当たりのあることだ。弱さは一時的なことでなく、人間の生来の性質なのだから。

世知辛さはすべて浅知恵である。

昔、煙草を買ったことがあった。開封し、一本取り出し、分解し、構造を知った時、正体を見た気がした。それで興醒めし、箱ごと捨てた。以来、買ったことはない。
人が中毒に陥るほどの仕組みの実相は、実に味も素っ気もないものばかりだ。

大きく誤ることは、悟るための、確実だが危うい方法である。

わたしがここに拾い上げた言葉は、すでに風味も無いのだから、深く吸わずに捨て、自分の足で踏みしめなくてはならない。

後始末も忘れなく。


(Sep/2024)