籠弍箋

それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
 - Psalm 1:5

わたしが教会を離れたことで、悲しむ人や心配する人が、わたしには何人も思い当たるので、その人たちに宛ててわたしを説明するために、記している。だが、わたしは、別にここに述べることを、その方々に必ず読んでほしいと願わない。わたし個人にそこまで関心は持っていないだろうから。そもそも、誰かに読まれたいと望んでいない。ましてや、誰かを導こうとか誰かのために書き記そうとの思いも何もない。ただわたしのため、わたしが立って歩むために書き残すものである。ここに書き含まれる思想が仮にあるとすれば、書いたわたしには何も自覚のない、つまりわたしの思想であるということが、わたしにはわかることもできない。読んだ人に確認されても、わたしの持ち物であることを否認するだろう。だからわたしには、読み取った思想はあなたのものか、あなたのわたしに対する見方にすぎず、それがわたしの本性と一致することは、ない、とわたしは断言してしまうだろう。わたしが今まで人を理解したことが一度もなかったように、わたしは人に正しく理解されたことが一度もないと思っている原因を探る目的もある。昔でいえば、いわゆる人間性の重度の音痴である。

わたしは教会で語られる教えを何も否まないし、これからも語られていてほしいと思い、もし本当に、喜びなさい、という言葉に従って喜ぶことができたなら、わたしはまた礼拝にぜひとも出たいからだ。ただ、わたしは礼拝に出て悩みを持ち帰って1週間を過ごす生活に、わたしの限界が見えた、それによってわたしが今どんな状態にあるか、わたしが何をしているかわからないまま、探ろうとしているのである。わたしの敵は、わたししかいない。誰かがわたしをいなくなってほしいと願うなら、わたしはわたしから去る。わたしが去れば充分だからである。つまり、わたしはわたしがいなくなってほしいと思うことがある。わたしがいなくなってほしいと思う誰かは、わたししかいない。今までもずっとそうだったし、これからもそうだろう。わたしの敵はわたしだけである。おそらくこのことが、喜びをわからなくさせている原因だと思われるが、分析が必要だ。敵を自分に定める人も、自分のみだと限る人も、普通出会わないし聞くこともない。そのうえ、わたしを考えさせこれを書かせるのも、わたしの敵であるわたしだからである。


2024/03/27

今の枠組みでは、私は発達障がいみたいなことになってるが、私の体験では、18歳のときに脳が壊れた人、というのが正しいと思っている。知能検査で「配列」「完成」の2科目が0点だったのだが、これは先天的というより脳が壊れてその機能がない、失われている、と捉えるほうが私には自然に感じる。というのも、この検査で0点を取る人はほとんどいないそうで、それが2科目もあるというのは、神経発達過程の問題ではなく、脳が壊れて機能しなくなったと考えるのが自然だからだ。今の診断技術では確かなことは言えない。でも、今の診断の枠組みは色んな脳の状態が一緒くたにされ(るしかなく)、診断名も確定的に付けられないのが医師の本音らしい。私は発達障がいの典型というより、後天的に脳を壊してそれっぽい状態になってる人だと私は思う。実際、その18歳のとき、視野の中央に緑の閃光が見えた後、右目が1分間真っ暗になり、戻ったと思ったら右脳が青く溶けていくような感覚になった。それから10年間、海馬とその辺りがずっとビリビリする感覚を覚えていた。これらを脳が壊れたと考えていいと思うのだ。


2024/3/31

20年という服薬期間が長すぎて、私はそんなに重い罰が与えられるほどの罪を犯したのか、と考えている。断薬前に牧師から勧められたエレミヤ書、ヨブ記、イザヤ書を読んで思い巡らしたい、ところだが、今は記憶や感覚が復活してきた喜びを存分に体験したい時だ。味、音楽、温度感、生理的な反応、筋肉、肌質など、もう全て、事情が変わりすぎて、今までって何だったのってなる。イースターの今日も外を歩くだけで喜びで溢れてしまうだろう。

20年間の記憶は、それぞれの場所の1〜2枚の風景写真のような記憶だけで、そこで何かしてたはずなのに何も覚えていない。誰に会っていて何か話したはずだが顔も声も何も思い出せない。それに対して、薬を飲まなくなってからの数日間は思い出せばいくらでも時系列でも引き出せるし、何を思ってたかも食べた食事の様子も味も、会った人と話したこともちゃんと覚えている。この差が大きすぎて恐ろしくなる。


2024/4/1

最近の記憶は20年間の記憶の質と全然別のものだ。面白いライブストリーミングと無感覚の短い写真スライドくらい違う。実際、大学生だったことも、結婚も、受洗も、覚えていない。この20年あったはずの記憶が薄すぎて、かなしい。いずれ抜け落ちてしまうのかもしれないけど、私は生きていたのだからそれは空想や夢ではないのだと固く念じたい。

隣で眠っている妻と、私は出会って結婚して10年一緒に暮らしていたのだ。妻はあんな状態だった私を見て何で私を選んでくれたんだろう。何を思って結婚して今まで支えてくれたんだろう。妻への感謝に涙が溢れる。


2024/4/2

私にとっての嫌いとは、怖くて避けたいわけわからなさだったのだが、物事も人も変わるものでその嫌いだという思いが消えていることがある。なので今は嫌いという感じがよくわからなくなってて、嫌いというのは一時的な反応なのかもと思っていて、私は本当には嫌いという感情を持ったことがない人なのかもしれないと思っている。


2024/4/4

私は多分、牧師とはどんな立場でものを言う人なのかよくわかってない。イエスキリストに従うという意味も勘違いしている。誰も教えてくれないことで私が自分を不自由にしていることがたくさんあるように思う。多くの人が好ましく思っていたり楽しんだり喜んだりしていることで私はその反対でしかないことがあまりに多いのはなんか変だ、というところから。


2024/4/15

私は学問をしすぎたと後悔している。なんでも学問にして考えてきすぎた。イエスキリストの言葉は受け入れやすいとしても、その後のキリスト教の考えや牧師の説教の言葉や祈りの言葉が、わからなくて悲しい。ぴんとくるものがない。なぜキリスト教なのか、ヒントもなく宙に浮いている。イエスキリストの教えは信じるに足るものだ。それは何よりも確信している。でもそこから様々な恵みを引き出してきたクリスチャンたちの喜びがわからなくて、おそらく簡単なことのはずなのに、私にはなぜ別の世界の人たちとしか捉えられないのだろう。礼拝に出るたびに悲しくなる。

結局、自分の思いというのがまだよくわからない。本心とか気持ちともいうのだろうか。そういうものを大切にしてこなかった。礼拝では自分の思いから離れるよう祈られるけど、私はその離れるべき自分の思いというのがわからないので、アーメンといいつつも何とも言えない。どうしたらそんなに自分がとらわれるほどの思いを日頃持って生きられるのだろうか。

私の当座のテーマは、生きている喜びを得ることだ。別に手段は問うべきでないと考えている。外食で新しい料理を体験する、街をより細かく観察して歩く。何をすれば喜びになるのか、今はまだよくわからない。礼拝にも、拒否感が強くない日はできるだけ出たいと思う。クリスチャンはみな自分を当然のように生きられているように映る。私は自分ではない何かのためにしか生きてこられなかった。自分のために過ごす癖をつけたい。私を大切にして過ごしたい。多分、この方向であれば、生きている喜びに通じているような気がする。自分を愛しなさいということなのだろうから。


2024/4/16

給料が入るのが重圧だった。また何かにお金を使わなければならないから。結局いつも面倒くさいので、教会に献金したり妻に送金したり募金したりして、できるだけ多く自分に残らないようにしてきた。欲しいという思いをどうやったら持てるか、というのは長年の疑問である。必要だから買うというのはようやく覚えた気がする。それまでは訳もわからず買ってよくわからない生活をしてきたから、だいぶまともになった。これからは、必要とは違う「それが欲しいから買う」ということをできるようにしたい。何か欲しいというものに出会ったことがないのかもしれないし、モノになんの執着も興味も持てない人なのかもしれない。それならそれで諦めたって別にそれで全然良い。でもこのままでは給料日にお金を貰うたびに悩んで憂鬱になるしかない。


2024/4/17

人ってそう簡単にわかれるものかと思う。私は人の共通性の物語にはなにも興味がなくて、個別性特殊性個体性の話の方にこそ面白い真実があるといつも思っている。例えば、植物一般の話は知識として知っておくべきだけど、少し離れた同じ種の木の枝ぶりの違いや、同じ木の中の葉と葉や花弁と花弁の些細な違いなんかすごく興味深くて何時間も観察し考察に耽ってしまえる。 神が人を造ったとか一般的な話は知識として定着したけど、本当に面白いのはそんな人がどうしてこうも同じ人がいないほどの生物であるのか、どうしてそれほど多様になるように神は人を造ったのか、そんな多様な人たちがこれからどんな社会を形成して神にどう向き合っていくのか。そういうことこそ説教してほしいといつも思っている。人間一般に言えることにとどまる話は多分もう聞き飽きている。


2024/4/18

私、実は今、教会を一度離れていて、最近別の教会に行っています。別の話が聞けるんじゃないかと期待して、です。聖書に基づいただけの話をしてくれる教会で、聞きやすいなと思ってしばらく通ってみようと思っています。讃美歌を会衆皆で歌うときは無上に幸せなので、礼拝には出たいのです。

妥協というのができれば、信仰を持ったままこの世でも立ち回れて、自然と思考も進み、喜びを得ながら生きられるような気もします。でもなんかそれはよくわからなくて、私の中では、世の中と信仰がぱっきり割れすぎていて、水と油な感じで、混ぜようにも混じらないままなんです。だから、平日は世の中で生きてキリストを忘れることにし、礼拝ではキリストの話を聞いて涙する、という1週間が私の信仰生活です。

教会が長い人、今まで神の愛のもとで育ってこられた人なら自然と、世の中で生きるクリスチャンの私、として自分を位置付けられるのでしょうが、私のように脳を壊したりガタガタしてきた人には、キリストから離れたほうがすんなり生きられると思えてしまいます。キリスト教、難しい。


自分で言うのもなんですが、私の魂はすでに天にあるというのは私の実感的にその通りだと思います。私の魂はキリストのものとされていると思います。私のものという概念がわからないほどです。ただ、なぜそれが喜びなのかがわかりません。神が私の魂を私のものとしないことで、苦しみを与えているのではないかと思っています。

私、説教は何もさっぱりわからないんですが、イエスの言葉はなんだかそのままスッと入ってきてわかる気がするんです。だから、私は聖書も福音書しか読めません。

でも、それも私の誤解かもしれなくて、というのは、私はもうこの世で生きなくていいといつも思っているんです。もし自分で死んで誰も悲しまず迷惑にもならない環境にあるなら、私きっと迷わず死にます。早く天に上げられて喜んで暮らしたいんです。でも、神は私をこの世で何かのつとめを果たさせようとしているのでしょう。それが何かわかりませんけどね。

神様はこの世での私の人生を喜楽に満ちたものにはしないようですが、私は天に召されたら、とても喜んで過ごせるのではとひそかに思っています。


2024/4/19

イエスキリストがこの世を愛し抜いたというその愛を、私はまだわからない。というのは、説教等で語られるイエスキリストの愛はわかるけど、その愛をもってしてはこの世の何者かとして生きていけない、という実感値が私にはあるからだ。この世の中のものを認めてそれに関わる者として自分をこの世の中に埋め込むと、途端に私は世の中の何者かとして、なんらかの人たちを遠ざけなくてはならない。

私は世の中で立場を複数持って生きざるを得ない。イエスキリストと同じ立場に立つことはかなわない。ならば、イエスキリストがこの世を愛し抜いたように私もこの世を愛すことなどできそうもない。「イエスキリストと同じように」という不可能性。私はイエスキリストと違ってなければならない存在にすぎない。信仰とは何をすることなんだろう。この世を愛して生きることなど可能なことなのだろうか。敵を作らなくてはならない、そんな生き方を選ぶのがこの世を愛して生きることなのではないか。私はそもそも敵を作るくらいなら私から静かに遠くへ去る人なのだが。


2024/4/20

生きることは簡単につまらなくなる。楽しいと思えることを否定され離されると、なるほど人生は楽しいものではないのだ、と簡単に知ることができる。楽しいことがない人は生きることは厳しいと簡単に言う。楽しいことがあることは尊いと今の人は皆言う。

楽しく生きることを、イエスキリストは必ずしも良しと見ない。イエスキリストの言葉によって、楽しいことや人が素晴らしいと言うような行いが砕かれることはよくある。神に喜ばれる生き方は、必ずしも楽しい生き方にはならない。

イエスキリストの教えが引き起こすいろいろな悩みによって、この世の様々な物事から免れていられるという面は確かにある。しかし、それらの悩みは世の中で良いもの素晴らしいこととされている価値さえ容易に砕いていくものである。この世で生きるのが嫌になる。世を避け、世から隠れ、息をひそめて生きるようになってしまう。それは楽ではあるが、苦しいと思うこともよくある。イエスキリストを知り信じる生き方だけが正しいとはとても思えない。

私はおそらく、キリスト教を世の中から本質的に離れる宗教だと信じている。ここが私の悩みの源になっている気がする。信仰を持ってから、楽しいことに熱中したり没頭していられなくなった。世の中と交わることに非常な違和感を持つようになった。牧師は私に与えられた賜物を世に活かしていけるよういつも祈り、私が世から受けてきたこの世的な特性を見つけてはほめてくるが、訳がわからない。だからこそ、イエスキリストがこの世をどう愛したのか?と疑問を持ってしまうのだ。

いつものおきまりの思考法である、どうせ私の認識のほうが間違っているのだ、に照らして考えれば、キリスト教がこの世から離れる宗教だという根本が違うのだろうと思える。しかし、こんな思考法を繰り返していてはいつまで経っても、どんなに説教を聞き、聖書を何度通読しても、私はキリスト教について何もわかることができないだろう。今まで私が馴染んできた考え方が全然通用しない。これからどうやって教会生活を送っていくべきか、だんだん深刻な悩みになってきた。


2024/4/21

結局、神は人にどこまでも服従を求める。人は何をもってしても、完全な善を実現できないから。神は個人という概念を信用していない。人はぶどうの木の枝であるにすぎない。木につながれた枝のひとつにすぎないのであって、誰も自立できる木そのものではない。その実はそれぞれの信仰の分け前であるから、独占することは不可能だし許されない。ここから、現代のプログラマや技術者が持ちがちな万能感は、当然大きな誤りを含んでいることになる。科学も芸術も政治でも、個人に焦点を当てても真実は見出せない。

「個人」は現代社会では当たり前すぎる概念だけれども、神に照らすと、誤りやすく偏りがちで、大きな弊害を孕んだ非常に危うい概念だとわかる。考えやすく便利で誰も疑わないような人造概念は大抵、永遠のものになるべきでない。


災害や突然の病や事故など、選びようもない選択を押し付けられ強いられることも普通に起こる。つまり、私が選べることと神が選ぶことがある。選択肢を自由に選べるというのは幻想である。意識的に選んでこられた人ばかりではない。恵まれた才覚を持てないできた人にはわからない考え方も非常に多い。何かに恵まれたなら同時に恵まれない人がいることも弁える責任がある。


2024/4/21

私は簡単に煮詰まる人だ。子どもの頃からそうだった。同級生からは考えすぎだよとよく言われ、両親には考えるな!考えない方法を学びなさい!と怒られたものだ。かといって行動しない人ではなくむしろすぐ動くしすぐ真似して取り入れる。だからか自然と濃い人生だったなと人と話していて思うしそう言われることもある。

聖書も少ししか読めない。通読できるような人は別の世界の人だと思う。議論も多くできない。議論が終わっても気づいたら何日もずっと考えている。説教を聞いてすぐに理解して喜びになる人になりたかった。でも私はやはり煮詰まっていく。煮詰まるのが私らしいとも思う。高校倫理で参考書や実文献を読み込んだくせに定期試験を白紙で提出し毎回赤点を取り、大学入試の記述試験を倫理で受験し合格したような私である。実は数学は答えが出て思考が終えられるので好きなのである。

考えろと言われたら煮詰まるほど考え続けてしまう。過剰は欠点。適度にとどめることができない。思考を止めてもらうよう神に祈ることも多い。なぜ私はこんなに考え続ける人になってしまったのか、高校で受けた教育の影響を思う。答えのない問いを記述させる授業が多かった。普通は受験に必要な知識を記憶していくだけでしょう?私のいた高校は指導もないままにとにかく考えさせた。それ以来、大学でも社会人になっても、考える系の課題で困ったことはない。考えたことをそのまま述べたり書けばそれで済んだからだ。色々な人、大学の人や社長や研究者からさえも、感心されることはよくあった。私はそれが別に嬉しくもなかった。息ができなくなるほど考え詰めていったことも何度もあったから。考えるのが楽しいと知ったと言う同級生はわりといたけど、私は自分で楽しめるふうに考えられる人にはなれなかった。

あまりよく考えないでいられる人がすごいと映ることがよくある。どうすればそんなふうにいられるかわからない。何かスマートに済ませて次に進む術があると想像する。考えることに価値があると近代の人は言ってきた。それがどういうことか私はいまだ分かれていない。私は何も考えられていない気もしてくる。


2024/4/22

聖書を読み御言葉を理解しようと努め礼拝に出るたび、天に宝を積んでいるというか、天にかかる梯子が確かなものになっているように思ってきました。天の住まいが整えられていくようなイメージですね。反対に、聖書を読み御言葉を理解しようと努め礼拝に出ても、この世での暮らしで何か変わるかといえば何も変わらないし、理解が少し進むくらいで、何か得られるのでもないし、苦しみは続くし悩みは消えないし、喜びや楽しみはむしろ削り取られてしまい、涙が出るばかりです。自分の罪を自覚しようとしすぎなのかも。

御言葉を理解するほど、天への道がはっきりとしたものになっていく気がしていて、いわゆる人への愛情とか想像や思いやりを大切にするといった道徳心みたいなものにはならないのですが、死んで消えたとしても神はずっとそれまでの理解する努力を覚えていてくれて、それで充分だと思います。私に何も残らなくてもです。


2024/4/24

信仰は人それぞれですし、人それぞれであるべきと思うのです。十二弟子ほか福音書の登場人物の信仰は皆違いますし、福音書が4種類で同じはずの出来事をそれぞれ違ったふうに語っていますよね。神はなにものも、ひととおりにはなさらなかった。もし皆に同じ信仰が与えられているなら、正解があることになるので、絶対的な正しさが存在してしまいます。そうすると、私は正しい、が、私だけが正しい、私たちだけが正しい、となり、少しでも違う人にとって脅威でしかなくなってしまいます。神の恵みってそんなのじゃないですよね。

私がここで長々投稿しているのは、私にとっては明らかに正しいことなのですが、誰かにとってはむしろ全然違う信仰であるはずです。私がここで投稿する内容は私から出た本音ですが、誰かの信仰を読み聞きしても、あまり思うところが少ないというのが私の欠点で、私に与えられた信仰の道の特徴なのかもなと最近は悩みます。

イエスキリストに救われる人生だったことは、私の喜びなのですが、どうやらこのままの生き方では、私の唯一の喜びとなりそうです。聖書にはおそらくイエスキリストに救われることは最高の喜びであると書いてあると思いますが、唯一の喜びだとは書かれていません。でも唯一の喜びだと信じて生を全うしたクリスチャンもたくさんいただろうし、ひとつでもあれば、しかもそれがイエスキリストに救われたことであれば、それで充分だとも思えます。人生には喜びがいろいろとなくてもいいのだろうと思います。

今は、なぜまだ生かされているのだろう、と礼拝後に考えてしまいます。この世はもういい、天に挙げられたい。という思いが残ります。この思いは自分中心すぎるとはわかっているのですが。なんとなく、私にはまだ傲り昂りが残っているような気もします。それが砕かれるたび、生かされている意味も少しずつわかるようになるのだと神に期待します。


2024/4/28

無神論に没頭していた18歳の頃の私を、神は深く悲しんでいたのかもしれない。だからこそ、神は私に20年の闘病を贈り、それまでの誇りであり喜びとしていた記憶力を徹底的に砕き去ったのだろう。最も大切なものを失わせることでしか、神は私を神に向けることができないほどだったのだろう。

私の記憶力は、私の捧げ物だった。何よりも大事なもの。それさえ神が私に預けてくださったものだったのに、それを私は私のものだと思い込んでしまった。私とは記憶力であるとさえ信じてしまえたほどだった。そのころに比べれば、今の私は確かに、神と健やかな関係にいると思うし、その状態が安定して保たれていると感じる。

「あなたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それが、あなたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。私が礼拝に行く意味がわかった。私が生かされている意味もわかりそうだ。

「神の受けられるいけにえは、砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を軽しめられません」(詩篇51:17)

砕け切った私の魂は、たとえ私では喜べないようなものでも、神が喜んでくださるから。神が重んじて見てくださるためなら、私の魂はどれだけ砕けたってかまわない。私が喜ぶために私を満たそうとするより、神が喜んでくださることの方が、どれだけ意味のある目的だろうか。神が私のこの捧げ物のからだを喜んでくださることは、単に私が私を喜ばすのとは次元も質も違った、静かで永続する熱い喜びであるという感じがある。


2024/5/5

礼拝に出席。マタイ8:23以降の箇所から、「イエスの舟に乗り込んだのが私たち」といった内容の説教。この会堂に集った皆がイエスの舟に乗り込んだのだと思うと、皆それぞれに乗り込んだ経緯があり理由があることに今更気づいた。ふと3年くらい前にFacebookで中学の同級生が「君を覚えてるよ、信仰を持ったんだね、すごく嬉しいよ」と明るく喜んでくれたことを思い出し、その意味が今更わかって涙が出た。その同級生もクリスチャンになり結婚したそうだが、のちに私はFacebookをやめてしまった。

賛美のくだりでは、200名を超える出席者の歌声が会堂に響き、5月らしく大変爽やかだった。私は思わず、自分でうまく歌おうとするのをやめ、半分その斉唱を聴きながらそれに乗るだけにした。その爽やかな歌に交じりたいと心から思った。私は1人ではなく一員だった。 救いの「喜び」はおそらく最大化させるようなものでなく、永続化させるべきものだと思った。今日のことはずっと覚えていたい。「他にもたくさん」を求めなくていい。ずっと覚えていられればこれだけで充分すぎるからだ。


2024/5/6

悔い改めは、頭脳特に記憶や感情や抑制の機能をフルに使う大変つかれる思いでありまして、海馬が回復したばかりの私など簡単につかれきってしまいます。まだ毎日聖書を読み祈る生活はかないません。今はようやく自分の過去を少しずつ振り返れるようになり、それで自分を悔い改められるようになったところです。受洗後10年にしてやっとクリスチャンらしくあれるのが不思議であり申し訳なくもあります。

記憶と感情を私から失わせたのは神の優しさだったのではと思うようになりました。もし記憶と感情が豊かに残っていたらもっと激しく迷い苦しんで過ちを重ねていたと思うし、果たして教会の門をくぐることまで考え至れただろうかと強く感じます。つまり20年間の空白の意味はあながち「罰」でもなく、神が私を狭き門に導き入れる「おさそい」だったのだと思います。

なるほどその記憶は余計で不要な、あるいは神ならすぐにゆるしてしまえる、門に入るには問題にならないものなのかも。そう思うと、空白の期間に私は何をしていたか考えなくてよく、それよりも神があのような私をこの狭き門に招いた意味を考えるほうが神に応えることにつながるなと思うようになりました。


2024/5/11

連休中に、高校、大学、新卒の時に自分がいた街に再訪問してきた。残念ながら大学は思い出がほぼ何も残っていなかったが、残っているもの思い出せないものがはっきりして、自分がどう考え生きてきたか、その現実を認識した。それから色々考えるようになった。今まで考えることもできなかったことを考えていけるようになった。感情のレベルまで掘り下げて考えると、人の言っている言葉の思いがわかれた気がして、聖書の言葉もわかるようになってきた。つまり私は本当に生きられるようになってきた。ふつう人が生きていて考えていることを私は考えてこなかった。私の記憶が闇に入り、過去が過去になったことで、私が持っていた感情が判明してきた。そのレベルで考えないと、ものを考えたことにはならないと思った。考えるのは数や物質でなく、人だからである。


2024/5/12

今日の礼拝説教はⅠコリント1:17-25で、人の知恵や賢さの限界を感じた。十字架の言葉は十字架の出来事を虚しくしないように、神が説教によって人を召し救おうとしている言葉であると。私の普段の知識や情報の追求が、上昇志向に基づいたものにすぎないと思い知らされ、簡単に高ぶりに変わってしまうことを覚えた。

賛美はやはり清々しく、私はほとんど歌えなかった。声が震えてしまい、醜く枯れた声しか出なかったが、会堂には美しく爽やかな大勢の歌声が響いていた。主の祈りでも「願わくは」の後から声が出ず涙が出た。私は今まで誰だと思っていたんだろう。

帰りも色々考えて歩いたが、ここに残すほどのことはなく、誰もが考えてきたはずであろうことをようやく私も考えるようになっただけだ。それに、私が考えるべきことは聖書に書いてあるので、まず聖書を読んでみようと思った。今なら読んでもわかると思う。今週をかけて、次回礼拝箇所の周辺から。


2024/5/18

今週考え至れたことで大きかったのは、自分に関する否定を簡単にしてしまっている自分に気づけたことだ。例えば、神を神とせよ、と聞くとほとんどの人は「アーメン」「異論なし」と思うか、「人間性って善とも限らないんだな」と少し思慮深くなるくらいで止まると思うのだ。しかし、私は「神は人間性を否定しているのだ」「私が人間であることはゆるされないことなのだろう」と簡単に当然と思ってしまえていた。それがその言葉の意味だと思っていた。それで聖書も何も理解し難いと思っていたのだ。

この認知傾向は子供の頃からのもので、いくつかの出来事をはっきり憶えているほど私の人生に大きく影響した傾向だった。つまり、これがまずいと気づくまでに私は30年かかったのだ。今気づけて本心から良かったと思う。正直、ほっとした。まだ癖が直るまで時間を要するが、バランスの欠いた人格や思考をいくらか矯正できるきっかけになると信じている。

そのままのあなたでいい、という言葉を、今のあなたの思考も人格も全て肯定しなさい、という意味だと安易に受け取るのも危うい。その今の思考や人格がもしバランスが偏り欠けや不足があるなら、それをそのまま抱えて今後も生きなければならない、と希望のない意味になってしまう。変わらなくてはならないのに変わることも否定しなくてはならなくなる。変わることが希望でなくなる。

私はずっとこのように捉えてしまっていたが、最近これを危ういと気づけたのは、「そのまま」の意味を考え直せたからだ。「今の状態」ではなく「本来神が私に与えた私」と捉え直せたからだ。そうするとすぐに今の私は一時的な状態に過ぎず、今まで記憶ある限りの私からみた私は偏っていてバランスに欠けていることが容易にみて取れた。つまり今の私は神が意図したそのままの私ではない。

教訓は、一貫した私をある程度認識していないと、今の私でしかものがわからなくなってしまう、ということ。刹那的というのだろうか。過去の私を否定したなら、現状肯定しか道がなく、全ての意味が変わって伝わるしかなくなってしまう。そして大事なのは、この状態から脱する道が実はあるということだ。


2024/5/19

ペンテコステ礼拝。聖霊が降った日だというのに、説教後の聖歌隊による奉唱の最中に泣き崩れてしまった。私はなぜこうも毎回ハンカチ全体を湿らすほど泣いてしまうのだろう。マタイ25:29-30が思い浮かぶ。

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです」

私はいまだ役に立たないしもべ、暗闇に追い出されたしもべなのだろう。いや、まだしもべにもなれていないのかもしれない。この2か月、実際に歯ぎしりがひどくて顎が開けにくいほど痛んでいたので、昨日買ったマウスピースをつけて過ごしたら痛さが緩和した。でもまだすごく常に噛んでしまうし、街の中で考えて歩いていると涙が流れてしまう。神と共に自分と向き合うのは簡単なことでない。


2024/5/20

マウスピースが使用2日で噛み切れた。私は何でもやりすぎる。短所は長所というが、ここのところ特にデメリットが上回りがち。いいところでバランスしたい。

実家にいた間、母が「人の話はふーんと聞いていればいいのよ」、父は「何事もバランス」とよく言っていた。あれは一般にでなく、私に向けた言葉だったのだ。両親はやっぱりよく見極めていたんだ。私の特性もその限界も。できること以上にやろうとしてはいけないのだ。賜物を足りないと言っているような高ぶった考えであるから。まだ私は自分を全然見積もれていない。自分を知ろうという思いは誘惑のひとつだ。しかし、誘惑によって初めて信仰が深まることもあるだろう。

ある児童文学の一節。「何かに夢中になると全て忘れてしまう。好奇心だらけの私は、いつもあとで困るのよ」好奇心によって己の弱さと無力に気づいた人の罪の告白であった。子どもの頃の私は、この台詞がまさかそんな意味なのだとは思いもしなかった。

好きなだけ勉強していいんだよと喜んで好きなだけ研究していたあの大学生活はいったいなんだったのだろう。大学の同級生にも賢明な人はたくさんいた。当時の私はその人たちの声に耳を貸さなかった。警告しようとしてくれた心に、心を向けなかった。学問のたどり着く先が結局、自分自身の意志を捨て切ることならば、これをはっきり理解するためだったのだろうか。妻の言う通り、私は大学でなにを学んだのだろう。神の成した通り、私の脳は大学での思い出をなぜ残さなかったのだろう。私は半分もわかっていない。

意味がわからない話しに出会うとき、聞き手の理解が話者の意図しない方向へ進んでいるだけなのだが、なぜその方向に進むかといえば、聞き手の習慣や癖や思想に根差した理解かもしれず、簡単に勘違いだとか誤りだとか言いにくい。イエスキリストはそれを正せる御方だ。意味がわからない理由が自分の理解が自分固有の理解でしかないためだと知るのは大きなことだが、どこにも導かれる道が見えなくなっているとすれば危うい状況を意味する。こうしてイエスキリストに自分から道を求めるしかなくなる。

わからないけれども、私は多くの他のクリスチャンたちのようにイエスキリストの道を歩めない人かもしれない。でも、最後は同じ方向を見て平和のために協力できる人なのかもしれない。優等生でなく、コースに乗れる人でもなく、不登校が続いてクラスメイトの誰も私を知っている人がいない中、卒業式にだけ顔を出してすぐに家に帰るような人。卒業アルバムに写っている写真はないけど、名前だけ残して別れの日を迎える、そんな人。

それでもイエスキリストの道を確かに通った人なのだ。


2024/5/22

私が高校生の時に無神論に没頭したのは、神がサイコロを振らないのなら、どうして人生は可能性にすぎないのか。という問題を解かなければ死ぬに死ねないと思っていたからです。

まず神がいないとしたら、と考えた。神をいないものと考えたかったんでしょう。そうすれば、人生が単なる可能性でなくなり、具体的で現実的な人生になるとでも思ったんだろうな。神が必然のうちにあらかじめ全て決めているなら、私の生き方もはっきりとわかるはずなのに、私は単なる可能性で、私は何者でもないし、何かになれそうもなく、いろいろと才能や能力や努力や性格まで認められ褒められはするけど、それが何になるんだ。そう思っていた。だから神はいないんだと思ったんだよな。

結局私は、イエスの霊の証人になった。解けたんだよ。ものすごく満足しているし、すごく深いところまで納得した。だから、もう数理の研究をやめてるし、いつ死んでもいいと思っているんだろうな。


2024/5/26

Iコリント12:4-11を改めて読むと、霊の賜物が挙げてあるが、世に言われる「才能」は書かれていない。発明発見の才能、数学の才能、音楽ほか芸術の才能など、そういった才能じたいは霊の賜物ではなく、むしろそういった才能をどのように考え、どのように自制し制限し活かすか、という方面の才能こそ、霊の賜物だとわかる。

おそらく、世に言う才能とは、その人の才能、人間的な才能であり、神が賜ったもの、霊的な賜物なのではない。むしろ、神が人間の罪なり業なりをいずれその人に現し、イエスの霊の証人とするため、神の栄光を讃えるようになるための、試金石として、人に持たせたものだと思われる。


2024/5/27

主の祈りを考えるに、イエスキリストが愛さなかったものは、生活でも仕事でもお金でもなく、食物でも異性でも学問でもなく、悪である。悪を愛さなかった。それ以外のものは、むしろ、愛した。神がつくって良しとみたものだから。

神が良しとし、イエスキリストが愛したものごとを、私も愛せなくてはならない。悪に傾きがちだからといって愛すのを避けていてはならない。

イエスキリストがこの世をどのように愛したのか、少しもわからないままでいるのは悪である。と私自身の思い違いを反省した。


2024/5/28

新聖歌428を見て思うのは、イエスキリストに「満たされる」というのは、イエスキリストで「いっぱいになる」という意味だから、必ずしもそれがいつも喜びや感謝や楽しみとは限らなくていいのだと。イエスキリストのなしたこと、私になしたこと、時代や人類になさったことで、胸がいっぱいになるということなのだろうと。

要するに私も今はイエスキリストで心が満たされてある人のひとりなのだと。それが今までの私が知っている喜びや感謝や楽しみを伴っていなくても。それらが全然なくても、私もイエスキリストで満たされている人だと言っていいのだということを知ったのだと。


2024/6/3

妻と話していてふと出た言葉。

妻が、私の主張が見えないことがよくあるけどそれはなぜかと聞いたので、私はとても落ち着いた声で言った。

「どうでもいいんだよ、自分のことなんか」

そう、これが私の性格、私の本質。

今まで私と同じ人に出会ったことがないと思っていて、私がどんな人間なのか分からずにいた。でも、私はちゃんと私をわかっていた。結局私は、私がどんな人なのかさえ、私のことなので正直どうでもよかったのだ。

これは私には価値がないとか、私の命なんてどうでもいい、ということではない。人を大切にしないとか、人を本当には大切にできない、という意味でもない。そうなんじゃないかと悩まされたこともあったが、そうではないのだからそうではない。

要するに、人に何かしても、感謝してくれる気持ちは感謝するが、感謝される自分はどうでもいい。人に何かされた時は、その人の厚意に感謝するが、何かされた自分はどうでもいい。

この社会でより正しく振る舞えるようになるために、人との関係における性格として、もう少し分析し、認識を深めておきたい。今のところ「自分に無頓着すぎる」という欠点が見つかる。


2024/6/4

昔母教会で、よくプレイズソングを聴いた。歌おうとしたが乗れないものも多かった。なぜか。歌詞に違和感が拭えなかったのだ。

悪気なく正直に書くのを許してほしい。「君だからすばらしい」にはこうある。

『人と自分をくらべてばかり/今の自分に自信なくても』

これを私は「私は人と比べてその人と自分の違いばかり見つけている、悪いときはその人の短所を見て自分がそうならないようにしている。父親からは人と比べるなと教わったが、こうすると集団内の自分の位置がわからなくなり自分が誰なのか弁えることもできない、だから人と比べていかなくてはならないと思う。でも、こう考える自分はすごく性格が悪くてとても教会にいる心の清められた人たちと分かち合うことができないし励まし合えることがない。それに、父親に従い私を人と比べないできたので、今自分が誰かもよくわかっていない。だから私は自分の人間性にすごく自信がない。中高生の頃からそうであることはよくわかっている」と思って聴いたが、どうやら多数派の感じ方は違うらしかった。

要するに私は自分に絶対の自信があり、イエスキリストはその私の傲慢さを打ち砕く存在として今も共にあるのです。


2024/6/5

何が辛いかすぐわかる人は、やはり自分をよくわかっていて、少なくとも感覚的にわかっているから辛いときにすぐ辛いと言い出せるのだろう。受け止めるほうもある程度距離を置いて辛さを受け取れるから辛い人の話を受け止められるのだろう。

本当に辛い人は、辛いことが言えないらしいが、なぜ言えないか、いくつか思い当たるところはある。辛いと言っても解けないことがわかっているとか、辛いことが人生のデフォルトだと思っているとか、辛さがあるから生きる実感が持てるとか、いろいろあるだろうと思う。

私は辛いと言ったことが多分そんなに無い。言った記憶は一度もない。なぜなら、辛いという感じ?がよくわからないから。何が辛いかもわからんし、どこが辛いかもわからん。今が辛いのかわからない。だから辛いと言うことができない。嘘か何かになることは言えない。

辛さを経験することは大事だと思う。これが辛いということだと知れるから。私は何が辛いかわかることがなかった。だからまあ、私は辛く無いのだろう。本当に辛い人の辛さをわかることができないのだろうから、私が辛いと言ってはいけない。


2024/6/6

私には、自分を知ることは、不幸なこと、不幸を弥増すだけのことだ。胸が滾ってしまう。人と離れたくなる。次の問題が出てきてそれを克服すべき課題と捉えるしかなくなる。私は何も考えないで今まできただけなのだろう。空の星や雲を見て考えるのが好き、くらいの自分しか知らないのだから。

最近ずっと自分周りのことしか考えられてない。わかったと思うと傲慢になってただ苦しい。人のことを考えると少しは頭が冷えるが、利己的なことでしかないと思う。牧師は自分を知ると人に優しくなれるよ、と私に言った。私は牧師を離れた。自分を知ることが困難であるのは、何か大きな悪を私は抱えているようだ。

コリントⅠ 13:13の「それゆえ」がその前とつながらなくてわからない。

フィリピ1:29:キリストを信じることも恵みだけど、それだけでなく、キリストのために苦しむ恵みも与えられている。ことについて。1:15-16、妬みと争いの念に駆られ愛の動機から宣べ伝える人、善意で利益(死:1:21)を求めてより苦しめようと宣べ伝える人。そんなことはキリストが告げ知らされていることに比べればどうでもよくて(1:18)。1:20:己の肉体を生きた聖なる供え物として捧げることによって、キリストが公然とあがめられ、キリストが告げ知らされている喜びが皆に伝わるのがパウロの希望である。2:2:(人々でなくて)キリストと同じ思い(2:6)になり、キリストと同じ愛(2:7)を抱き、キリストと心(2:8)を合わせ、キリストと思い(2:9)を一つにして、その喜びをパウロに満たしてください。

僕は今救われた。


2024/6/7

コリントⅠ 13:13の「それゆえ」の理解がつながった。

13章の「わたし」とは、読む私でなく、パウロだ。ということ。同じく13章の「愛」とは、神の愛で、神に由来しない愛、ではない。これを区別していいと学んだ。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」で顔を見合わせるのは、パウロと私(たち)。

「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」も、パウロが私をはっきり知ってくれるということだ。この世で私を知ってくれる人がいない私を、だ。

それゆえ、当然、
信仰、希望、愛は、いつまでも残る。パウロにも、私にも、神から出た愛を知る全ての人にも。 そして、パウロが神の愛を知る人であるとおり、人の持つ信仰と希望よりも、神の愛のほうが、いつまでも大いなるものだ、とパウロはのべている。


2024/6/8

ペトロⅠ 1:24-25

「こう言われているからです。 「人は皆、草のようで、 その華やかさはすべて、草の花のようだ。 草は枯れ、 花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」

そう、これが 福音 なのだった。自分が長く生きてこの世で栄え、いつも強く美しくあることとか(1:18)ではない。そうであることが難しくて大変な困難と無理を常に要求される、そういう生活を離れて(1:23)、

この世の人は皆、いっときの花をつける草のようで、それは日本的には美しい世界観かもしれないが、どうせ消えてなくなってしまうこの世でのわたしたちに、イエスキリストの言葉が、永遠に変わることなく、告げ知らされている。

これが、福音。すなわちパウロの喜びである。


コヘレト3:10-11

結局わたしは、深く考えずに知識を集めてきただけだった。神の知恵を思うと、わたしは何も知らないんだ、何をしても。としばしば思ったが、それは当然である(コヘレト2:26)。

これが正しい、ならこれで考えるのを終わりにしよう。と思うとき、神の知恵だと考えると、それはそうか?本当に正しいか?となり、神の知恵ははかり難い、少なくともいまのわたし、わたしの賜物では、それを僅かでも見通すことさえできないと思える。わたしがこれは正しい、こういうわけで。と思えなくなることで、わたしは高ぶりやその周りの悪から守られる。これは大きな恵みである。

わたしは、もう無闇に知識を集めたりしない。それよりは、いまは聖書を少しずつだけ読んでいきたい。コヘレト4:17の自覚が消えたので、明日から、3月までいたもとの教会で礼拝しに行く。


フィリピ1:27

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、」

パウロの喜びって、やはり、この世から去ってキリストと共にいたい(1:23)が、生きてとどまるべきだ、との板挟み(1:24)になったことのある人にしか、本当には伝わらないのではと。そうしてはじめて、パウロが福音で喜びに満たされるのが、わたしの喜びになるのだと。

だから「キリストの福音にふさわしい生活」とは、要するにこの板挟み状態の心を忘れない生活、パウロの喜びを忘れないような生活のことをいい、

一つの霊(イエスの霊:聖霊)によってしっかり立ち(文字通り現実世界でひとり立ちして)、キリストと心(2:8)を合わせて福音の信仰のために(1:18:パウロを喜びで満たすために)、イエスと共に(マタイ10:34)この世と戦っている。のである。

そうすれば、板挟み状態の心も救われ、耐えられるものに変わる。すべてを信じられる。


2024/6/9

ローマ12:1

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」

今日、3月まで行っていたもとの教会で礼拝した。牧師は不在だったが、顔馴染みの教会員たちが優しく迎えてくれた。中でも、4名の教会員の病状が驚くほど回復していた。失語症で言葉が欠けていてもそれは多少にすぎず会話が互いに理解できた。自閉の傾向があるという方も、顔を綻ばせて多く語ってくれて信徒に心を込めてマッサージをしていた。足腰が不自由な方に至っては、腰がまっすぐ垂直になり杖が不要なほど自立して歩けるようになっていた。わたしが脳の病から解放されたのも。皆それぞれイエスの霊が癒したのだ、もちろん医療の成果でもあるが。

「あなたのからだを」だけでない。「あなたがたのからだを」なのだ。ぶどうの木のような、器官たちからなるような、キリストの肢体なのだ。それぞれの枝や実が怪我や傷や病にあっても、それらを生きた供え物として捧げること、これが、わたしの、そしてわたしたちの礼拝の姿なのだ。


2024/6/12

高1の3学期試験を、わたしは休んだ。風邪のような胃痛のようなものだったと思う。わたしは、通知表で1ばかりついているのを知っていた。親も喜んでいた。でも、わたしは、わたしからかけ離れた評価がつくことをおそれ、将来は人の上に立つ仕事はしないと決めていた。自分がその器ではない、とても耐えられない、組織の恥になるだけだ、と自分でよくわかっていた。

休み明け、担任が、このクラスの年間平均点は学年1位でした。と嬉しそうに発表し、渡された通知表には2とあった。わたしは初めて1番ではなくなった。解放感。そして、自分を悔やんだ。わたしなどがずっと1番をとってきてしまった、と。

2年の夏に、担任に退学届を提出した。自分はこの高校にいる資格はありません、という内容。担任は受理せず、将来を心配した。仕事を得にくくなり、人生が難しいものになるよ、今を捨てずにもう1年、来なくていいから在籍するだけで楽になるんだよ、と。わたしは子どもの頃からお金を使いたい人ではないし、ひとりで生きていくつもりであり、わたしに相応しい名誉などない。と担任に伝え、泣いて親を説得して、冬に受理された。3月中旬に高校を離れることができた。


2024/6/16

今日から、もとの教会で午前礼拝、4月からの教会で夕礼拝、のダブルで礼拝することにしました。2つの説教で、はからずも重なっていてしかもわたしにはわからなかったことがあります。それは、次のことです。

人と比べるとなぜ苦しいと思うのですか。わかりません。わたしは、人と比べることはただ楽しいことでしかないからです。人と比べて違いを感じたり知ることは、ひたすら楽しいことだからです。

わたしは、自分らしいと思って生きてきました。個性があるとも思っていました。自分で満足できるくらいの個性はあると思ってすごしていました。でも、個性的であることは少しも楽しくないし、自分らしいのが喜びとは程遠いものでした。自分らしいことは、申し訳ないことだとしか思っていません。

だから、なにか間違ってきたのだと思います。でも、そのなにかが、今まったくわかりません。 ちなみに、自分らしいとか個性的だとか思っていても、わたしがどんな人間なのか、いまだよくわかってません。

仮説を考えてみました。

1.自分の能力が低いと思っても、それを上げる方法がわからないから

 人と比べてみて、わたしはなんでこんなにできないんだろう、と思うとわたしはすぐに、こうだからだろう、こうしよう、あれやってみよう。とすぐ思いつくので、落ち込みや何やら苦しむことがなかったです。

2.自分の能力を弁えているから、あまりに飛び出た人を見ると苦しい

 わたしは、自分の能力を弁えたことがない人で、限界は今も知りません。こんな人は、自分を弁えた人にとっては、会うのが不愉快かもしれません。

3.人の能力に対して悪い思いを持ってしまう自分が苦しい

 いわゆる才能への嫉妬、のようなもの、のことなのですが、わたしは嫉妬という感情を持ったことがないです。人の能力で自分もその能力欲しいと思えたものが何もないんです。

と、こう考えたところで、このようにして知っても、わたしに何か意味があるのか?と思いました。だからか、コリントI 12:31の目的がわかりません。牧師は、信徒に教えられるのは恵みだと感謝していました。キリストのからだとして、各器官がより大きく働けること、が目的になるだろう、とは思います。


2024/6/17

今日はっきりしたのは、イエスもわたしも、自分の命を投げだそうと思った、その思いは、まるで別なのだ、ということです。くっきりと違いがわかりました。

わたしは、同級生に、いなくなればいい、死んでしまえ、と言われていたので、そうだな、そのとおり死んでしまおうと思い、死のうと行動しましたが、死にきれず逮捕されました。

しかし、イエスは、死んでしまえと言われ逮捕もされ、実際に死にましたし、復活してわたしたちの友となりました。わたしの友にもなりました。

わたしを友としようとしてくれた人は、今までに何人かいました。でも、わたしは尽く絶交したり縁を切りました。一方、イエスは友のために命をすて、信じる全ての人の友となりました。このとおり、明らかに違うのです。

わたしは、友が死んでほしいと言ったので死のうとしました。イエスは友のため死に、よみがえってまで友となりました。

わたしが、わたしの友人となってください、と申し出て友となってくれた人は、3人います。29歳のころ就労施設で共に働いた同僚、32歳ごろ教会で出会ったピアノを愛する80代の大先輩。そして、イエスです。わたしは3人です。イエスの比ではないです。


2024/6/18

マタイ22:37-39

説教で人の悩むことをきくと、ほとんどの場合、わたしはその悩みをそう悩むふうには悩んだことも、そう考えたこともないので、わたしがいかに外れて生きてきたか、という思いに直面する。

わたしは中学での面談で、担任に、何か悩みはありませんか、と聞かれると決まって、悩みがないことが悩みです。といつも答えていた。本当に、なにもなかった。きっとあの時期に、みな自分と向き合って悩んでいたんだろう。そうやって真っ当な人になったんだろう。

やはりわたしは大事な時期を逸した。ただ通過してしまった。今になって、自分のことや自分の気持ちをなにも考えてこなかったことを後悔している。

イエスが友となって愛してくれる自分やその気持ち(「よろこび」…?)がよくわからない。隣人もイエスに愛されているけど、自分のように隣人を愛しなさい、と言われても、内容がない。ことにしかならないのだよね…


マタイ5:48

今まで、意識したこともなかったけど、わたしには大きな心の穴がある。という言葉が当てはまるようだ。そして、どうやらそれは、ばかでかいようである。

心の穴、と検索すると、心の穴の埋め方についての記事がたくさんあり、2、3読んでみた。ショックな出来事や、自分が捨てた性格が心の穴の正体である、とする説明があった。なるほど、それはとても当てはまる。寂しさ、という説もあったが、そもそもわたしは寂しさを感じたことがないから、違うのだろう。

ただ、それらがどう関係しているか、同定するのは難しい。ショックな出来事は片手で数えられないくらいはある。捨てた性格についても、2、3は思い当たるところがあるが、それが何であったかを、言い当てるのは難しい。なぜなら、自分の性格を、そもそもわたしは少しもわかっていないから。

教会の人たちは、やはり、ちゃんと生きてきた人たち、きちんとした人たち、自分としっかり向き合う生き方をしてきた人たちなのだろう、と。わたしの生き方が、いかに薄くつまらないものだったかを知らされる。そんな彼らと、完全な人になる道を歩ませてもらっているが、道のりは遠い、というか、わたしには遠すぎる。


マタイ13:47-50

わたしはめったに怒りを感じることがない。ただ、いつも怒りを感じることがある。それは、自死した人に対してだ。自死した人に対しては、いつも怒りがわいてしまう。

なんで自分で死ねるんだよ。死んだら周りがどうなるか考えてんのかよ。考えて考えた上で死んだのなら、よほど恨みやなにやらを抱いていたんだな。なんでそれを死ぬことでしか消せなかったんだよ。ずるい、ずるすぎる。

こういう怒りだ。それで、怒りは二次感情と言われ、本当の自分の気持ちは怒りの奥にある、だから自分の内側に問いかけましょう、と文献にあるので、問いかけてみた。すると、わたしは、やはり過去に死にきれなかったのが非常に悔しいんだと考えている。ただ、本当は自分で自分を殺したいのに、それを倫理観、強い倫理観で抑え込んで、生きている。結局、抑制によって、倫理観が強く鍛えられる。生きるとはその学習の繰り返し、でしかない。

もしわたしが、天国へ行けると確定しているとしたら、わたしにとっては、かなり危ない行動につながる。だから、天国へ行けるか確定していないことは、少なくとも、この世で生きる希望に通じる。


主よ、

あなたは、わたしにさまざまな人々、出来事、言葉、賜物を、与えてくださいました。また、教会にも、さまざまな出会いをいつも与えてくださいます。

わたしは、なぜこのようなものごとが、このように、与えられているのかは、なにもわかりません。しかし、あなたが与えてくださった物事に、感謝して、わたしはこれから、生きていきます。

それは楽しくはありません。忍耐を要するものですが、耐えがたく辛いものではありません。喜びにはまだなっていませんが、ただ、これはわたしが、かつてのわたしが、あなたに確かに祈り求めたものです。あなたは、確かに、与えてくださいました。そして、わたしが淡く期待したものは、正しくも、与えませんでした。

だから、わたしはあなたに感謝し、あなたを信頼し、あなたのために祈り、礼拝します。あなたに栄光が、いつまでも、ありますように。

Amen.


2024/6/19

エゼキエル33:12-13

わたしたち主に救われた人たちは、自分の正しさなんかかなぐり捨て、というかそうすることで救われた人も少なくないと思うけど、自分の正しさが、主の前ではなんの力も意味も持たないことを、はっきりわかった人たちです。

でも、やはりこの世で生きるかぎり、正しさをいろいろ論議したりその議論に参加することが求められますから、ある程度は意見を述べなくてはならず、常に葛藤します。

わたしは、人の正しさなんて、個人的か集団内でしか効力がないものだと考えています。だから、人の正しさが人を救うなんて思い上がりで、誰かが正しいとされれば、誰かは間違っているとされ追放もされる。人の正しさってそんなもんと思います。言わば、争いの力学を秘めている。

正しい人はひとりもいません。神に従う人が正しいのですし、その人は自分が正しくあれないことを主に告白し続ける人です。為政者や徴税人など、人の前で正しくあれなくてはならない人たちに信仰者が多い理由だと思います。


コヘレト1:8-11

昔よく、〇〇に正しさをもとめてはいけない、と教わったことがある。アート、文学、政治、とかについてだったと思う。思いなおすと、確かにそうだと思う。当時のわたしは、ならエンタメなんだろう、と早合点していたが、今思いなおすと、そうでもないと思う。

〇〇に正しさをもとめてはならない、は、きびしい言葉だったのだ。と。人や物事や、おのれの中にも、正しさをもとめない。なぜなら、見つかるはずがないから。この世のどこかに正しさはありますか、と。(ない。)

人々が正しさを求めるのは、きっとほんとうは新しさを求めているのでは。と思うことがある。新しく見えるものはたくさんある。でも、いくら新しさを求めたって、おのれが新しくなるだろうか。真っ新になるだろうか。

新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるもの(マタイ9:17)、古いぶどう酒を飲めばそれで満足する(ルカ5:39)。革袋、すなわち、わたし自身、が新しくされると、新しいぶどう酒をためる、すなわち、キリストの愛にとどまることができる。そうして初めて、この世に起こるなにかに正しさを求めなくなる。新しいものなどないと理解する。そんな理解です。


2024/6/20

コリントI 6:15

これって、比喩ではないのか。体って、この体のことなのか。この体って、キリストの体の一部なのか。これ、比喩じゃないんだ!

6:17も、比喩じゃないのか。この霊も、イエスキリストとひとつなのか。6:18b、そうなのか。わたしの体の中では、わたしは罪を犯すことができないのか。わたしが罪と思っていたのは、なんだったんだ?罪ではなかったのか?6:20、わたしが払った代価って、なんだ?

つまり、わたしが牧師に犯していた罪が、わたしが初めて知った罪なのか。わたしは罪を犯したのか。なにをしたんだ??わたしは。


わたしが払った代価は、わたしでした。わたしに代わってイエスは死にました。わたしはずっと死にたかったし、なにも残らないことを望んでいた。世に宝も富も、有名になる機会も、褒められることも、なにも残らないことを。そんな死んで消え果てたいわたしに代わって、イエスは死にました。そして、イエスはわたしの体に霊として住みました。

美しいものが、なんでしょう。わたしはイエスの霊で填められ、わたしはどこにもありません。思いがもうなんにもない。わたしの体も、わたしのものではないどころか、わたしはどこにもいない、ただここに体があります。世の楽しみ、ありませんでした。世の誉れ、どこかにあるのか知りたくもない。もうキリストに代えられるものが、なにもありません。どうしたらいいのでしょう。もうこの世ではわたし、終わりなんだ。


2024/6/21

マタイ5:11-12

わたしは、嫌いという感情を、初めて知った。おそらく、もう自分を虐めるのは、今朝で最後になる。そして、牧師と会うことはもうない。

わたしは結局、死ねなかった。牧師は敵だった。そして、わたしは罪と、わたし自身を知った。罪人のわたしを。

嫌いと、イヤは、違うんだ、と。わたしは、初めて人を嫌いだと思った。そして、わたし自身を嫌いだと思った。嫌っていいのだと思えた、なぜなら、わたしが死んでしまうからだ。心のやさしい人は、イヤとしか思えないと思う。こんな自分はイヤだ、と。でも、それだけではいつか自分を虐め殺してしまう。

わたしは敵を愛せるか。わたしが悪口を言うなら、本人に面と向かって言う。敵本人の身に覚えのない悪口を。そうすれば、敵は喜べるだろう。大いに喜ぶだろう。そのくらいの愛は、わたしにはある。

わたしも誰かにとっての悪人です。また、わたしも、わたしの敵です。


2024/6/22

コリントI 11:28-30

いつも、聖餐のパンとぶどう液が、わたしには多いと感じる。屑一つ、一滴で、わたしが味わうには充分なのです。

しかし、これは、なにかすばらしい意味で言ってはいない。わたしは、主イエスを、屑一つ、一滴しか、受け入れられない人なのだ。それほど、人をほんの僅かしか愛せない、そして、なにより自分自身を、髪の毛一本も愛せない人なのだ。それがわたし、神の下でのわたしだ。

これは現実を考えての結論である。わたしは、主イエスを知ってから、自分を愛せた経験が、5度ある。しかし、それぞれ、入院、不眠、一時的難聴、長時間の嗚咽、自傷、と、わたしはわたしを喜べなかったどころか、健康が損なわれた。わたしは、わたしであることが喜びにならないことがわかった。(これを疑ってこれ以上追究するのは、現実的に危うい。)

今は、なにもないわたしが、ただいるだけだ。救われた、わたし。そのわたしにふさわしいのは、屑一つと一滴。あるいは、それさえ受けるに値しない。ほかの喜びの信徒に分配して然るべきである。


2024/6/23

ルカ10:28-29

恥ずかしい話、救われるとは、身ぐるみをすべて剥がされてなにもなくなる、ということだ。わたしだとわたしで定義して研究して制作して纏ってきたわたしが、すべて、剥ぎ取られたうえでのわたしが、主に救われた、わたし。

身ぐるみを苦心して作ってきたのは、わたしが少しも喜べないわたし自身だったから、なのに、わたしはわたしを知ろうとしてしまった。そして、わたしが喜べないわたししか今ここに残っていない。

ただ、そんなわたしを喜ぶのは、神であり、わたしでなくていい。そんな人は教会にはとても少ない気がするが、わたしはそうとしてしか存在しない。

毎日、毎朝、わたしは新しくされる。でも、わたしが思っていたのとは、いつもあまりにも違う。生きるのって難しい、と教えられている。イエスキリストを、本当には知らなければ、生きるのは簡単だった。でも、主はわたしを招いた。わたしも従った、そうとは知らずに。

わたしが代価として払った、わたしの身ぐるみ。わたしはそのようにしか、人を愛せない。また、わたしをも。


2024/6/24

わたしの最初の記憶は、住んでいた住宅の公園で、母によしよしと抱かれて道路を走るトラックやブルドーザーを指さしてその詳しい情報を発声する光景である。光景といったのは、腕に抱かれているわたしではなく、わたしを腕に抱いて公園に面した道路に立っている母子を、後ろからかなり引いた位置から眺めている、という記憶である。もちろんこれは後年わたしの頭の中で模造された記憶である。また、住んでいた室に入る階段のあたりで、わたしとよく遊んでいた近所の子が、虫を目ざとく探している姿や、地面にチョークで絵を描いている光景が浮かぶ。その子の姿もとても小さいもので、わたしはそこにいない。あとは、わたしが家で段ボールやトランプで不思議の国のアリスに出てくるような家を作っていて、多分上の妹と一緒に作ったと思うが、その家の内装までかなり記憶に残っている。でも、妹もわたしもその記憶にはいない。いろいろ遊んだり作ってはいたのだと思うが、自分よりも、作ったもののほうや、周りの光景に興味を奪われていて、自分には何の関心も持っていなかった。

わたしは、ある、ということに安心を覚える少年だった。その、あるものは、物理的にある物でもいいし、記号的にあるものでもよい。そして、それをたくさん探して集めてきて、敷き詰めた光景に強い安心を覚えるのが、なによりの楽しみだった。もちろん、お金がかかるものは欲せず、また、特定のものを欲するのでもなく、お金がなくてもたくさん集められそうなものを、探すことをよく考えた。だから、石や葉や、BB弾やシール、そういったどこにでも落ちているようなありふれた物を、よく好んで集めていた。また、データ、数字、分類された体系のすべての項目、というものには特に執念を燃やして探し集めていて、辞書やデータベースや統計表が少年のわたしにはきわめて身近な存在だった。机には、ガムの空箱を引き出しに隠し持っていた。いわゆる10円で売っているガムである。時々そのウォーホル的な並びを見ては、深い安心を確認した。物や記号に対する、目に見える楽しみのようなものを享受できることの安心、目に見える意味を受け取れるわたしの能力に対する安心だった。たくさん持っているので、個別の要素に全体を眺める視点で意味を汲み出せる。学校の勉強もそのように捉えていた。


2024/6/25

箴言12:15

わたしが好奇心によって信仰が妨げられていることはよくわかっている。わたしのなすこと考えることすべてが悪に傾き結局神のみこころにかなっていないことも感じている。

それでも神がわたしに与えた賜物は好奇心なのだろうか。それともこの好奇心は悪魔がすでに入り込んでしまったものになっているのか。そうだとしたらこの好奇心を聖なるものとして清めなくてはならない、と思うがそれはなにをどうすることなのか。

わたしは、箴言や詩篇を読んで、ずっとどちらがわたしなのか、とわからず迷ってきた。正しいのか、愚かなのか。知恵のある人なのか、無知なのか。罪のない人なのか、悪の人なのか。いつも、悪人はどうなってしまうの。という感想を持ち、祈って考えていたのだが、やはり、わたしは無知でありすぎる。(箴言17:15)

わたしも、祈ってきた。聖書をわたしなりに(少しずつ)読んでもいた。でも、わたしは聖書を読んでも、わからなさが増え、迷いも増すばかり。難しい。難しすぎる。

わたしはどうあることを祈るべきなのか。わたしが信じたい神さまではない、真の神さまに対して、わたしはなにを祈るべきなのか。わたしが教会を離れるべきだ。


(Jun/2024)