平和契約論

風に飛ばされた葉はしばしば鳥のように見える。
 - Johann Wolfgang von Goethe


わたしはここに、天才を回復する方法を書くことになります。一般的には、天才と呼ばれる人は、相当程度の困難を成し遂げた人でしょう。ただ、ここでは、その程度を問いません。わたしがしたことが、その相当程度に当たるとは思っていないのです。わたしには天才だと今でも思う人がたくさんいます。実際に出会った人にも、本や論文で知った人も多くいます。わたしの研究を公にしたために、わたしもその一人と思われうることをおそれるとき、わたしは過去に、心が洗われる、本質を突かれる、と言われたことが何度もあることを思い出します。というのも、わたしも過去に、心が洗われ、本質を突かれたことが何度もあるからです。そのゆえに、わたしは彼らを今でも天才だと思っています。したがって、言うなれば、人間の本質、人間としての基本、人間の素晴らしさを感じさせ思い知らせてくれる人を、天才であるとわたしは思います。さて、天才を回復する、と記しました。昔はこの人天才やと思っていた人が、今の言葉を読むと今は天才ではないのだろう、と思うことはままあります。しかし、それは天才が失われたという意味でなく、さまざまな生活上の事情から、そのように考え言わざるを得ない状況にあるのだろう、と思います。つまり、苦労している最中なのだと思います。天才は失うものに見えるかもしれませんが、それは一時的なことです。なぜなら、今苦労しているなら、この先に別の困難を達成する可能性があるからです。そして、言うなれば、人間の本質、人間としての基本、人間の素晴らしさを、人に感じさせ思い知らせる才能は、苦労と困難の中で育つものです。どの人もそうでしたし、わたしもそうでした。それゆえ、それこそが、人間の本質、人間としての基本、人間の素晴らしさであると、わたしには思われるのです。

現実的な人は、自由がないんやろな、と思います。また、現実性のない人は、自分が消え果ててるんやろな、と思います。自由も自分も、現実を必要としますが、現実だけにはなくて、どちらかといえば、それらと現実とが、等しいくらいでないと、現実と対等に付き合えません。逆に、それらと等しくしてこれを保とうとするところに、自由も自分も存在できます。ですから、現実に従ったり、自由の奴隷になったり、自分を主張しすぎている時は、どこか対等さよりも大事な価値観を重んじている時です。ところが、わたしは、現実と対等に付き合うことが大事やと思うようになりました。なぜかといえば、人も世界にあるものも、序列や価値の階層をつけずにいるほうが、いつも自然で気持ちがよいし、穏やかで平和に過ごせることに気付いたからです。つまり、自然で気持ちがよく、穏やかで平和に過ごせる以上に大事な価値がないことを思い知ったのです。わたしはこれをもう手放したくありません。おそらく、同じように思って暮らしている人たちは、わたしの周りにも多くいます。ですから、人々からこのように生きる権利を奪うことは、決して良いことではないと考えます。ただ、自然で気持ちがよく、穏やかで平和に過ごすよりも大事な価値観で生きたい人もおられることを思います。わたしは、それについて何か言うことはしませんし、何かしようとも思いません。関わらないのだと思います。ですから、その人も、わたしに深くは関わらないでほしいのです。このお互いに深く関わらないけれども、同じ地上に暮らしていける社会が、各々の権利を保ち、義務を果たすための基本的な要件なのだろうと、わたしは推定するのです。

ところが、わたしも若い頃は、自然で気持ちがよく、穏やかで平和に過ごすよりも大事な価値観で生きた人間なのです。これらの価値を軽蔑しつつ、より生産的、創造的、革新的に活動せねばあかん、と信じて生きてきたのです。そして、わたしの顧みるところでは、このようにして生きた時期がなかったら、わたしは何も達成しなかったでしょうし、何も満足するものを生めなかったどころか、自然で気持ちがよく、穏やかで平和に過ごす生活を、ここまで確たるものとして大事にすることにも至らなかっただろうと思います。若き日の価値観は、今のわたしには、愚かだった、と感じられます。しかし、本当には、それを愚かだった、と知れたことが大きいのです。知ることができた、ということです。知るために活動していたのですから。それゆえ、わたしは、価値観の異なる考えで生きようとする人のことは、今やもう関わりたくないけど、同じ地上で暮らしていてほしいと思うのです。決して、互いを過度に否定したり、ましてや盗んだり殺したり辱めたりするのは愚行やと思うのです。しかし、誤る自由もまた認められるべきやと思っています。なぜなら、それが間違いだったと気付いて知ることができるからです。人間の本質、人間としての基本、人間の素晴らしさを学ぶ入口に立てるからです。その入口に立つことが、いわゆる「素直な心」やと思います。自然で気持ちがよく、穏やかで平和に過ごすための根底にあるものです。わたしにはこの素直な心が、今は何よりも大事ですし、これをもう手放したくないと思う以上、これからもずっとそうであると信じて生きるでしょう。

人は互いに注意を払い自分とその周りを守りますし、何もない純粋な心を持って生まれています。そこへ立ち返ろうと思えばいつでもできますが、互いを深く知ろうとはそれほどまでは思っていません。ただわたしたちが同じ地上で暮らすために欠けていたものとは、自然で気持ちがよく穏やかに過ごすこと、つまり平和ということです。そして、そう思わない人もいる以上、互いに平和でいるには、平和な関係を人や自然と結ぶ人、そしてそもそも、平和を作ることへの合意がいるのではないでしょうか。なぜなら、自然で気持ちがよく穏やかで平和に過ごす人がいる限り、地上には人が一人ではありませんから、どうしてそれを許さないと言えるでしょうか。もし許さないと言うなら、それを同じ理由で許さないと思う人はいるでしょうし、許さないと言う事情を考えた上で、理由をつけて許してしまう人もいるでしょう。その理由とは、おおかた、わたしたちが同じ地上で暮らすために何を望むかは、多様なほうが良い、といったことでしょう。地上には人が一人ではありませんから。その上でも、地上に人が一人ではいないことを許さないのであれば、その人が別の地に移るほうが早いと人は考えるものです。地上には人が一人ではおりませんから。そういうわけで、地上に、自然で気持ちがよく穏やかで平和に過ごす人がいる限り、それを許さない人もまた、生きるためには許さないでいることができないのです。その上で、自然で気持ちがよく穏やかで平和に過ごすために、国家や社会を組織するのが賢明な市民であろうとわたしは思います。

天才とは、神が与えた力だと理解されます。天賦の才能だとか生まれついたものだと考えられています。しかし、人は生まれたのですし、今まで生きてこられたのですから、力は充分与えられているのです。また、人や自然と平和な関係を結べる人は、平和を作れる人です。平和を作る人はいつも幸せそうにしているので、生まれついた性質や才能だと人から言われます。でも、そんなものは誰だろうと生まれついた時から与えられています。生まれついた性質や才能を天才と呼びます。わたしは、この頁に平和を作る方法を書いたつもりです。そやから、はじめに言うたように、この頁には天才を回復する方法を記したつもりでおるわけです。