日本的発想


ご存知のように、この日本には、広大な平原はさほどないですし、長い大河もありませんし、砂漠も大してありません。その代わり、火山の山脈や、風情の違う海や海岸、静かな里の森があります。また、地震や津波、噴火、台風、大潮が、年間だけで何度も起こります。だから、日本に住むとわかりますが、日本人にとって、自然はこわいんです。だから、知ろうと思うんです。完全に把握し制御してうまく使ってやろう、とは、とても思えないんですね。どこかあきらめているところがあります。その分、不思議すぎていくら知っても知った気にならないのが、日本人です。それゆえに、日本人がものを作るとき、そもそも発想が、つくる、ではなく、つくらしてもらう、なんですね。ものをぼんと作り立てるのではなく、ものを置くところや使う人たちの中に、置いて使ってもらってなんぼ、なんですね。

実は、こう見ると、美しくないものってそうそう無いんですね。なぜかと言うと、美しくないものも、その理由を考えると、そうであらざるを得ない事情が見えてきます。そうあろうと必死な様子です。つまり、たとえ見えるなりは美しく見えなくても、そうあろうとしている魂胆には、たいてい美しさが含まれています。生きよう、存在しようとする気魄ですね。つまり、存在そのものでなく、そのものを存在させている背景、環境、置かれた事情を、日本人は自然と考えるので、大体のものは美しいと思うわけです。

そもそも、自然、つまり人間が一から作ったものではないものは、神がつくったり与えたりしたものなので、美しいと思うものです。それを人間が組み換えたり分けてつなげたり、混ぜて煮たり焼いたり、並べたり集めたり写したり、見つけて証明したり数えたりするのですが、どうやっても、人間が作るものは、やはり自然が元なのです。だから、人間も美しいものを作れるのです。

わたしの生まれは新潟県の十日町市ですから、稲穂の一面の黄色や、平らな稜線の山並、そして真っ白で明るい雪景色は、わたしの原風景ですし、それはいつでも美しいと思います。また、森の木々の枝葉が風に揺れるさまや、砂浜の伸びた海岸に寄せる波音と磯の香り、毎日見える空に同じ形のない雲が動いている様子は、やはり何度見てもあきません。ちなみに、特に関西では、あきませんと言うとそこで話が終わりますが、あなたのことは飽きないですなあ、と言って別れるのですから、またいずれ会うでしょう。自然はあきません。

こう見ると、まわりにいくら人工物があろうとも、やはり自然なんですね。人工物は自然のものから借りてきて作られたものだ、という意味でもそうですし、人工物が置かれた環境は自然の中だ、と言ってもいいですし、その人工物の形や仕組みを発想したもとは、自然にあったものだ、ということでもあります。空を飛ぼうと思ったのも、鳥のように動きたい、と思ったためでしょうし、車輪も、ものを運びたいと思っていた人が、雪崩か何かを見てまねしたものでしょう。要するに人間は、自然にいるものや起こっていることから、形も仕組みも考えついたのです。

ところが、上の例ですと、鳥や雪崩など、人間以外の現象から学んだわけですが、わたしの考えでは、日本の人の発想は、人間の特性や性質から学んでいるような気がします。縄文土器も、人が様々な用途で運べて煮炊きや保存にも活用でき、かつ見ていて元気が出るものだから、広まって使われたのです。八木アンテナも、人間が電波をこう使わしてもろたいから、それだけを素直に形にしたからああなったのであって、電波全てを人間が有効活用してやろう、という発想ではなかったのです。なぜ、このような発想かというと、前にも言ったように、自然は使わしてもらうものでしかなく、あやつることも思い通りにすることも、できるはずない、と思っており、その上でものを作るときは使う人がいるから作るのですから、自然とその人の生活をまず考えます。それに合うように、形や素材や加工法を選んでは試し、そうやって多くの人が当たり前と思うものが生まれるのです。

わたしはそう思いませんが、最近の人は、自然を正しく見ない人が増えた、と聞きます。文字や記号や計算機の中を生きているからでしょう。しかし、よく考えてください。漢字は絵でした。記号も図でした。計算機も自然です。つまり、今もなお、やはりわれわれは自然の中に生きているのです。そう感じていないのは、やはり自然を正しく見てないからです。人工物の中にいて、たまに空を見るとあっと思う。それが多いのでしょうけど、わたしは、広大な空の下に人工物があるとおっと思います。これは違いです。わたしはやはり、自分の世界が美しくあるよりも、世界が美しいと思って生きたい。そうすれば、その場に起こることのすべてがよく見えますし、ずっと見ていてあきません。ですから、わたしはまた自然と会いたいのです。こんな民族に殺されては、必ず強く傷つけますし、こちらも深く傷つきます。だから、日本は戦争すべきでないのです。わたしたちは自然とともに暮らしたいのです。自然がこわくとも、朝が来るのがいつも楽しみでいたいのです。