1.
Tは母校の小学校の前の道を自転車で走っていた。
杉林がゆるやかに曲った並木道を形づくっていて、間を通りぬけるそよ風は花粉の飛散を感じさせなかった。校舎の側で赤白帽をかぶった少年が木の陰に隠れながら、オニがくるのを待っていた。細い幹から顔を出しそっと見回してはまた隠れ、退屈な時間を愉しんでいた。
12時の鐘が鳴った。まだ真昼である。
Tは鞄の中からキーホルダーを取り出し、それを偏屈に曲った穴に差し込み、ぐいと捩じ込めた。重々しい扉が開いた。
『ただいま。』
彼はいつもの癖で言ってしまった。家には誰もいないというのに。彼は玄関の戸を開け放ち、家中の窓をすべて全開にした。立ち罩めていた独特の臭の代わりに外気の生温かさが入ってきた。彼は暫らく空の明るさを眺めたあと、台所へ去っていった。
Tは台所でやかんに水を入れ火にかけた。戸棚の奥からカップめんを引き出し、薄いフィルムを剥いだ。
『即席3分』。Tはキッチンタイマーを探した。
彼に残された時間は少なかった。
2.
Tはカップめんの汁を流しに流せずにいた。飲み干すと塩分摂取が過剰になってしまうからだ。Tは何か良い方法はないかと模索した。バナナの利尿作用を知っていたが、あいにく野菜室で真っ黒に爛れていた。
そうこうしているうちに笑っていいともがエンディングにさしかかったので、Tはあきらめてテレビの前のソファーに横になった。いいとも選手権は今日も時間内に終わらずにカットされ、何曜日が優勝したのかわからずじまいだった。
彼はテレビを消した。彼は毎日この時間に昼寝をするのが日課となっていた。休日はもちろん数学の講義でも体育の授業でも決まって両眼がまどろんだ。それは彼にとって、意識的行為というよりも不可抗力だった。
しかし今日は眠くなかった。彼はうら高い天井を茫っと見上げた。
もうすぐこの家に引っ越して一年になる。彼は前の家がなんだか懐かしくなった。2Kの間取りに5人が犇めき合い、自分の部屋など持てる筈が無かった。仕方なく彼は、埃に塗れた天井と湿っぽい押入れとの間で10年をすごした。生活水準の低さに文句をいう余裕は無かった。彼はそんな生活が好きだった。
Tは寐れないので少しの間散歩に出かけることにした。
3.
空には小さな分厚い雲がいい塩梅に散らばっていて、地面のうえに明るい影と暗い翳で斑模様を映し出していた。風は幾分か冷たくなっていた。Tは夜な夜なコンビニに出かけるオヤジの様な風采で、サンダルを引きずり鳴らしながらぶらぶらと歩き始めた。
彼の足は知らず知らずのうちに以前の家に向かっていた。
公園の角を曲がるとそこにはよく見慣れた風景が広がっていた。クリーム色の外壁はところどころに剥げ落ちた跡を残しつつ、うっすらと疲れたような空気を漂わせていた。老朽化のため来年4月には取り壊されることになってしまったが、それでも建物はいまだオーラを存分に出していてそれが逆に懐かしさ以上の感情を煽り立てた。
103号室の郵便受けを見た。一年間でたまったビラやチラシがいっぱいに詰まっていた。Tはその中に一枚の葉書を見つけた。差出人は彼の小学校のころの友達だった。彼女は小学三年のとき隣りの小学校へ転校した。隣りといっても市境を挟んでいたからそれ以来会うことは無かった。彼女は引っ越す前にTにバレンタインのチョコをくれた。そしてホワイトデーが来る前に去ってしまった。
手紙には今度は遠く山梨へ引っ越すことになったと書かれていた
彼は妙な胸騒ぎを覚えた。
Tは走り出した。
4.
僕は小説を書くと言ってしまったことを内心ちょっと後悔しながらも、彼の左手に握られた葉書の住所を追っていた。幕張本郷だ。どうやら彼女のマンションはそう遠くないところにあるらしい。幼い頃遠い異国のように感じられた場所も、今では同じ高さで見えている。そんな眼の前にその建物は現れた。背の低いマンションだった。側面の丸いフォルムは真新しい光彩を保っていたが、外装のマリンブルーが程よく色褪せ、辺りの雰囲気に馴染んでいた。Tは初めて来た遊園地の入り口を見上げる時の心持で、建物の中へと入っていった。
Tは室の前へ来て、呼び鈴を押した。押した指の尖端から、緊張と郷愁の混合物が瞬時に体中を駆け巡った。それまで何も感じなかったのが不思議なくらいだ。
彼は暫しの時を待った。しかし何秒経っても扉の奥から応える声は無かった。階下の郵便受には名札がなく、やっぱりチラシが積もっていた。彼女は既にそこには居なかった。
彼はマンションを出た。じわじわとわいてくる安堵が、体を巡っていたテンションとうまく噛み合わずに汚く滲んでいた。少し先を歩いた時、彼は視界が急に変わった気がした。道の脇から広い枯野が見えたのだ。その一面に広がる象牙色に吸い込まれるように彼は斜面を転げ下りていった。
5.
それはある夏の日のことだった。
檜山は壁に向かっていた。自分の体よりも大きく硬く無機質な壁。自分を包みこむ灰色の空間の中で檜山は一人ひたすら壁と挌闘していた。両手にはスプレー缶が握られていた。夜もどっぷりと深まって、辺りの家々はぐっすりと床に就き、光をもたない町の空気が小気味よく小麦色の肌を刺した。古くなった蛍光灯はビリビリと鳴きながら、まるで誰かに何かを求めるように点いたり消えたりを繰り返していた。
檜山の手元には4色のスプレー缶が置かれていた。黄、青、赤、銀。その4色はいずれも混じりあうことのない強い個性を持つ色だった。スプレーの色は水彩の絵の具と違って、繊細なな力を覆ってしまう図太さをもっていた。
檜山は缶を手にとり軽く振るうと、正面の壁にあらわれた何かの姿を追うように、腕を動かしはじめた。その腕の動きは、彼の意志に拠るものというよりも、彼にその時取り憑いた何者かが、彼の腕を操っているかのようだった。
渺茫とした枯野の中にかわいた空気が厚く沈澱していた。ここは春になっても草木が芽吹くことはなく、夏になっても葉が青々と茂るようなことはなかった。というのも、昔大きな沼だったところを埋め立てた土地だから水捌けが悪く、植物がなかなか根付かなかった。当然、地元の不動産会社も目を向けず、周りにどんどん新しい住宅地が増えているのにもかかわらず、建設会社が仕方なくという感じで資材置場に使っているという始末だった。全く、価値のない駄目な土地だった。
それでも動物たちにとってはありがたいところだった。枯野には一本の川が流れていた。水質はさほど悪くはないが、川幅が少し広くて、魚も棲んでいるようだった。その魚を求めてか、毎年秋も押し迫った頃になると、たくさんの白い渡り鳥たちがやってきて、みんなで集って休憩地点としていた。梅雨が終わった頃には川辺で無数のスズムシやコオロギが孵化し始め、夏の初めから終わりまで夜を奏で続けていた。
Tは脳の動きが止まったまま不思議な足取りで枯野を歩き続けた。
知らず知らずのうちにTはある場所へ来ていた。Tは足を止めた。
6.
檜山が壁に描き出していく怪物をTは側の壁に座りこんでじっと見ていた。辺りは確かに夜だというのにいっこうに寒さが襲ってこない。外の生温かささえも感じないほど体全体が燃え上がっている。瞳孔は瞳よりも大きく開き、脳はぐるぐると動いて生意気に作られた体系を次々に鎔かして呑み込んでいる。今日は最早寝られそうにない。むしろこのままこの状態が続いてほしいと願っている。頭が熱い。
檜山の手が止まった。烈しい色と線が壁じゅうに騒いでいた。正直なところ具体的に何が描かれているか解らなかったが、それよりも閃くように沸き立つ強い力に満ちていた。自身の周囲を取り巻く得体の知れない大きな圧力に、必死に抵抗し、挌闘し、訴えた、その過程の跡が、そこにあった。その力がTの中の何かにすーっと入り込んだ。そして何かが入れ替わった。ほんとうに自然に、それは起きた。落書きはいけないという通俗的な理性は受け入れられる隙が無かった。Tは初めて、何かをからだ全体で受け止めた感覚がした。
「なあ、大人になるなんて馬鹿馬鹿しいことと思わないか?」
皺嗄れた声は昔と変わっていない。
「大人になるってことは木についてる枝だの葉っぱだのをすべて削ぎ落とすことなのさ。そのほうが木材としての利用価値が高まるからな。」
彼の言葉には含蓄があった。
「人生は川さ。川底をいくら掘ったって砂金なんか見つかりゃしない。ただきれいな水が濁るだけさ。だから水を濁らせないように生きるのが幸せというもんなんだよ。それにもちょっと難しいコツが必要なのさ。」
7.
Tは枯野を抜けたところにある高速道路の架橋の下で静かに壁を見つめていた。壁にはただ、しみのような跡が残っているだけだった。きれいになったコンクリートの肌はあまりに無味乾燥としていた。石油溶剤の香りはすっかり残っていなかった。彼はしみのついたところを指で軽く触れて、しばらく遠目で見つめたあと枯野へと戻っていった。
枯野には背丈の高い枯草が一面に生えていてクリーム色の景色をつくり出していた。クリーム色は人のこころを寂しくさせる色である。もともとは黄系統の色なのだけれども白味が混ざりすぎていてそのせいで遠ざかってしまった黄色さが何かを失ったあとのような気持ちにさせるのである。
Tは枯野へ来ると、その時もう既に、枯れ草の茎の一本一本がオレンジ色に光り輝いていた。振り返って見ると夕陽が空に低くなっていた。Tは夕陽の光りの向こうに地平線を探した。彼にとってこの景色は特別なものだった。思わず彼はあのときの風景に思いを馳せた。
陰鬱な紺青を深く湛えた水面の上に
遐か遠くから漂ってくるオレンジが
油膜のごとくギラギラと輝きながら
蠢めく波を頻りにとらえて離さない
それでも夕陽は海に溶け出してゆく
海はあつく煮え滾り
夕陽の粉塵をきらきらと舞い上がらせる
ちょうどそのとき
耳の奥からあの旋律が聞こえてくるのだ
どこかで聴いたような
そしてそれは
今目の前にある光景を
あたかも前から知っていたかのように
ぴったり調和した雰囲気を
紡ぎ出しているのだ
強い震動に体じゅうが襲われ
烈しく心臓が揺さぶられる
幾層も薄皮が剥けて
地肌が露わになっていく心臓が
海の血潮を求めてる
はっと我に返った時
瞼が潤すもので重くなっていた
8.
Tは自分の部屋の机の椅子に座った。だいぶ久しく座っていなかった気がした。机の上の状態は一年前と変わっていない。結局使わなかった参考書群が隅に並び、そのかわりにプリントや紙の類が脇のほうで堆く重なって古びている。そのせいで机の表面は殆んど姿を現さない。現在机の上は建蔽率が異様に高いようである。Tは山の中からノートを4冊抜き出した。ぱらぱらと捲って少し読んでみた。
『僕の目の前を遮るものは何だ?
僕を迷わせる彼は誰だ?
もう堕ちるのはやめろ。 やめろ。
やめるんだ。
ここから這い上がれ
すすめ。 無我夢中ですすめ。
ただひたすらすすめ。
まわりを見るな。
力を出せ。 出しつくせ。 疲れろ。
そうだ つきすすめ。 突進して、
ぶつかれ。 そこで散れ。 』
自分で記したようだが書いた記憶が無い。だいいち筆跡が凄じい。斜向きで大きく乱暴な線が白地の上で狂って踊っている。よほど追い詰められていたのだろうか。冷静な眼には、この筆勢は狂人以外の何者でもないように映るだろう。そんな調子で奇妙な線が4冊にわたって書き連ねられていた。Tはばっと閉じた。そして布団の上に抛り投げ部屋を出た。
9.
真夜中の空気はひんやりと涼しくてスウェットの布地の合間を冷たい糸で縫っていった。人の姿はもちろん、車の走る音も疎らになっていて遠くで黄色い信号が点滅しているのが見えた。ドーンという静まりの中でただ処々の街灯がジリジリ鳴っているだけだ。昼間とはまったく異なった雰囲気は、まるで同じところとは思えない。むしろこの姿こそほんとうの街の姿であるようだった。Tはコンビニへ行くオヤジの様な恰好のままサンダル履きである場所へと向かっていった。手には4冊のノートが握られていた。
細い道に入った。ぐっぐっと砂利をサンダルで踏みしめる。ますますしんとしていて虫の声さえ聞こえない。道は両側を田んぼと森に挟まれている。昼間でさえ暗い森は夜になると深い紺を帯びてさらに気味悪さを増している。
急に森が切れて視界が開けた。そこはあの枯野だった。きれいな象牙色の印象はそこにはなく、油絵具を全色混ぜたあとのような死んだ色を呈していた。その変貌ぶりに目を奪われながら枯野の中へ歩いていった。
刈取られた枯れ草が堆く積もった山の中にTはノートを4冊うずめた。そしてポケットから静かにマッチを取り出し擦った。Tはその火が点いた1本のマッチを山の上へ抛り投げた。かわいた草はオレンジの炎を喜んで受け容れていった。炎はオレンジを濃くしながらじわじわと山を呑みこんでいった。填めたノートも倒れるように崩れていった。不図彼は自分の体を流れた時間を想った。長かった1年。憂鬱、葛藤、絶望とそれを満たした衝撃、霊感、感動、そして涙。次々と蘇ってくる感情を彼は炎の中に託した。
火は山を燃やした後広がることは無かった。そこにはただ真っ黒になった灰だけが残っているだけだった。Tはそれをサンダルで軽くあしらって、家の方向へ歩いていった。
彼はもううしろを振り向かなかった。
振り向く必要がなかった。彼の掌の中には小さな炎が灯っていた。