私たちには、目がついているのに、見えていない。
- Thomas à Kempis "De imitatione Christi"
一.
礼拝に毎週通っている.イエスの教えは,いつも喜べず,嬉しくもない.むしろ,難しく,受け入れがたく,行動に移せないものが多い.
いつも説教を聞きに行く時は,人生の課題を貰いに行っていると思って行く.
一の二.
私が受洗を決めた背景に,イエスが私を救えないなら誰も私を救えないだろう,との挑発的絶望があった.
今,再びイエスの言葉に苦悩している.でも,この苦悩は本物だ.以前と比較にならないくらい真剣で純粋な苦悩だ.
一の三.
救われたけど,何も楽しくないぞ?問題.結局,この世の娯楽で平日を紛れ過ごすしかない.
救われて悩みや苦しみはきれいに消えたが,その分,生きることにこだわらなくなり,それまでの楽しみは消えた.
このままあと何十年も生きるのが想像できない.
一の四.
イエスさまのようになろう,と教える教会もあれば,傲るな神を神とせよ,と主張する教会もある.
何をどのように信じたらよいのか,今はわからない.どちらからも距離を置いて,雑駁な意見を意識の片隅に浮かべていようと思う.
二.
天の国を想像すると,現実に存在するとも考えたくなる.昔は天の上にあると多くの人が信じていたように.
神は天の住まいを準備しているという.その住まいはいくらでも増やせるという.これを限られた空間で混んでいく一方だと思う必要はない.なぜなら,この宇宙も無数に浮かぶ宇宙のひとつだから.
神は万物を創造したという意味を,現代までに判明しているデータを元によく見つめてみる.この地球を造っただけでもすごいのに,この銀河,宇宙,それどころかほかの無数の宇宙をも神は造ったのだ.地球の創造は,ほんの小さな吹けば飛ぶ砂粒ほどの規模の創造なのだ,神にとっては.(分子をどうしてこのサイズに造ったか,というのも面白い問題だ.)
のちに住むであろう天の住まいは,この地球から遠く離れた場所だと想像すると,この無数の宇宙のどこかであることが尤もらしい.つまり,召された後の天での暮らしとは,地上の世と違って,真に自由な霊となって宇宙空間を行き来できる生活だと信じられるので,信仰や愛と共に希望が永遠に残ることを思わず肯ける.
二の二.
理性を万能だと思うのはただの傲慢で,現代人の誤謬である.100兆桁の素数を求めようとすればわかる.人が100人集まって計算しても,存命中には叶わないだろうし,素数の公式を見つけてプログラムを実行しても,計算資源の有限性の前で求解は実現しないだろう.
理性は万能ではない.人の寿命も人の作れるものの量にも,制約があるから.理性は神から人に与えられたものではあろうけど,「私は神の理性で考えている」とは言えない.人は誰でも預言者ではないのだから.
理性が万能だという思想が,無神論と融合した時,その危険性を解くような論理を準備しておかなければならない.
二の三.
神が人を創造したとの信仰を,生命科学を専攻した私は持っている.創造論やID論は足りないと思う.進化論もまだ不完全である.神が聖書にあるような方法で人をつくったのだろうとは思うけど,その方法を科学はまだ解明しきっていない.
人を誰がどうやってつくったかと考えるとき,細胞がどうやってできたかを考える人は多い.実験室でつくってみる研究も15年以上なされている.神がつくった方法を完全に解明する日は遠いか,証拠が揃って解明できる問題なのかかなりあやしい.人が細胞を無から作れれば,解明できたのだろうと納得する.その時代には原子や光も無からつくられているだろう.
神のなさった創造や奇跡の全てを人が再現できるまで解明するのは可能とは限らない.私は情熱を注ごうと全然思わないけど,もしそのように努力する人が出てくるならそれは素晴らしいことだとは思う.でも,人は決して神になれないし,なろうと願っても絶対にかなわない.神が人をどのような者としてつくられたかを考えてみればわかる.
三.
人がするべきことは,悔い改めることだけだ.学問も悔い改めながら行わなくてはならない.楽しいことの楽しい面だけ抽出して楽しむことは,自分のいいように作り上げることにすぎないので,よくない.その楽しいことはしばしば,人の作ってきたことの中で閉じているだろう.
人には作る力があるし,人の作ったものの中で楽しんだり,作る人として作ることを楽しむ力もある.しかし,人を中心にして人のいいように,いい感想や反応をもらうために,便利で快適な環境を作るために,作り出すだけなら,神を忘れさせ,神を忘れていいための装置を作っただけだ.
人が神を忘れて人のいいように世界を考え作っている今の世界を神はどう思っているのだろう.神の応答があちこちで現れているようにも思える.
三の二.
褒められるほど砕かれる.だからといって褒められることを避けてはならない.私が褒められる時,褒められているのは私の行いや人格ではなく,神が私に与えた賜物である.人が私を褒めるのは,私に与えられた賜物を通して,神に栄光を帰すためである.
私が褒められた時は,私ではなく,神の栄光こそを私も褒め讃えよう.きっと神はご自身を砕かれ,それを喜ぶかただ.
三の三.
褒めて育てれば,育てる方は楽だ.ただ褒めれば良いから.しかし,褒めただけ,虚栄心が強く育つ.よって,褒めるよりも,人間の弱さを教えた方が,将来人間の悲惨さに直面した時に,狼狽しないよう対処できる.
神が愛す相手に選んだ点を除けば,人間は別に素晴らしい存在でない.葦のように弱く,ただ虚栄心から動くだけの惨めな動物だ.
四.
人を理解するなんてできないものなのだろう.気象であっても細胞であっても素数であっても,完全に理解できるものではない.どんなに努力しても.
世界平和とか他者理解とか相互尊重も,人がいいように描いた偶像で,それに基づいて行動したとしても,人にとって都合のいい結果をもたらすだけで,偶像であることに変わりない.その人が新しい偶像になってしまうかもしれない.
便利な世の中に自分を埋め込み,人の役に立つ存在として動き,完全な快適さをさらに求めて生きるのが戦後の人の生きがいだった.信仰のない人が人生の意味を投影する対象が,仕事であり経済発展であり家族であっただけだ.外国にとって都合のいい国になっただけだ.
またひとつ,私は日本人らしさを失った.
四の二.
理解できると思うことはある種の欠陥で,周りの人にとってみれば美徳にも傲慢にも映る,人間の厄介な性質だ.
公平であるためには,どんな他者であっても,理解しすぎないことが大事だ.偏りが生まれてしまうから.
五.
昨年秋からクルアーンを読んでいる.どこに書いてあるんだろうか?異教徒と戦争しろとか人を殺せとか憎しみを持てとか.イスラム教はキリスト教もユダヤ教も先駆として大いに認め尊敬するとの思いがクルアーンには溢れている.
人が戦争を正当化するために神を利用しているだけだ.神が悲しんでいる.シオニズムも原理主義者も,もう一度聖典に立ち戻れ.きっと涙を流して悔い改めるだろうから.
聖書を読むならクルアーンも,クルアーンを読むなら聖書もぜひ読んでほしい.互いを愛することができるはずだから.
五の二.
イスラム教はキリスト教やユダヤ教に寛容であり,キリスト教はイエスが異邦人に寛容であったように本来なら「クレメンティア」のある宗教であり,日本は言わずもがな多神教であるゆえ寛容である.
しかし,寛容であるのに,互いのことを知りもしない人が多い.日本人はキリスト教やイスラム教を非寛容な一神教だと思っているし,キリスト教は牧師でも多神教を宗教と認めない人もいるし,イスラム教とキリスト教とはなんだか特にきなくさい.
寛容と言いつつ互いを知らないのはクレメンティアではない.少しは知らなくてはならない.その上で距離を置いて寛容な態度を取れるようでなくては.
六.
作ることを,もっと謙って考えなくてはならない.作れる力を,神の造ったものを組み替えるだけの能力にすぎないと認識しなくてはならない.作れることに最上の価値が置かれるような時代だけど,作れる才能が神からの賜物であるとしても,この世で生き抜くための手段として与えられただけで,それは作れる範囲が限られたもので,たくさん無尽蔵に作るようには神は与えていないと弁えなくてはならない.
生成AIなどのテクノロジーによって,人の作ったものの価値が大きく失われていく時代がこれからやってくる.人の創造性の価値が零落していく時代になる.作れることを謙り,神の分け前とその目的を弁えることは,その備えになる.
六の二.
この世は人が造った世界.天国は神が造った世界.人が神の造った世界に学んでこの世を造れるよう,イエスさまは人となられた.
神のように造る力を人は持っていない.いくら科学技術が進んでも,神と同じ程度に人が力を持つことはこの先もずっと叶わない.でも,神はご自身が造ったように人にも世界を造ってほしいと願っているかもしれない.その願いをひとつでも受け継いで人は社会を造らなくてはならない.
人工的に見えるこの世にあって,神が造ったものを見出せ.人が造りかえただけのものばかり目立つ世で,神が造ったものを喜んで求めよ.人が造りかえただけのものに心や目を奪われないこと.
六の三.
壊し砕くこと,引き裂くこと,分けること.人が造れるものは大抵こんな方法で造る.いけにえを神が喜ぶのは,人が造るためには神の造ったものを人が殺さなくてはならないことを人に覚えさせるためだろう.
人が造ったものを神は欲しない.人は神の造ったものから造りかえることしかできないから.人が造るために神は造り続けているとでも思うのか.人が神を利用してはならない.
論理や規則も,人が互いに暮らし合うために人が造ったものだ.理性は万能だと人は言うが,神が造った範囲内で万能であるだけで,神の万能性に比べたら塵に等しい.神に笑われるだろう.
六の四.
技術によって神の恵みを忘れる.技術は表層的である.信仰なく生きてしまえば,表層的な自分になる.技術に囲まれているだけでは,自分がよく見えなくなる.
七.
私が教会につながろうとしてきた理由を検討すると,自分がクリスチャンでないことを私は発見する.私に信仰が与えられていなくてもいいことになってしまう.
私は裁きの日に天の住まいで憩うような死後を,いいなあとは思うがそうなることを強く望む気持ちがない.別に自分が死とともに消えてもいい.むしろ,永遠に生きたくはないと思う気持ちの方が強い.消えられるのなら消えたい.
私は20代までの苦しみから,救われた.それは聖書の言葉に出会ったからだと感じている.しかし,今となっては聖書の言葉は私を悩ませ悲しませ,新たな苦しみの元となっている.それは人生の本質であり,人生とはそういうものなのだろうと思うことにしている.
説教を聞くと,聖書箇所がこんなにもわかりにくいものになるのかといつも思わされる.私の読解力はすでに粉砕されている.私が教会に行くのではなく神が私を教会に招いている.
八.
欧州で中世が終わった背景は,キリスト教会の支配が強まったことへの反発,抑圧からの人間性解放だと言われている.一方,現代でも資本による支配が強まり,束縛ストレスや押し付けからの自由を標榜する人が増えている.
私は考える.中世が終わったのは,キリスト教会の支配が強まったためであり,キリスト教そのものが理由なのではなかったと.キリスト教はいつの時代も人間を救っている,イエスは永遠の真理だ.
よって,私はこの人類史で繰り返す抑制からの反発を,キリスト教に従うことで解消する道を選び続けたい.この道こそ,現代の資本主義からも自由になる道だと思うからである.
八の二.
神は誰に対しても同じことは言わない.その人に必要なことを必要なときに言う.それゆえ,人は万人に普遍的な事実を捉えきれない.人の理性が捉えられる普遍性は世界の部分である.
人の信仰が完全に普遍的なものになりうる保証はないが,主の出来事が普遍的な出来事だと言い伝えることはどの人にも保証しなくてはならない.
啓蒙思想が言うように,人に与えられた理性が本当に万能なら,この世が天国のような世界として人が造れる可能性がある.啓蒙思想は人の希望にかかわる思想である.もし本当に人に神の希望を叶えられるほどの力が与えられているのであれば.
八の三.
自分の思い通りになるものに大した価値はない.神のなすことは常に自分の期待を超え,かつ最善だから.自分の思いが常につまらないものだと覚えること.
期待を人に寄せても,いつまでも実現は困難である.期待を神に寄せれば,期待を超えて実現する.人の思いを叶えるのは常に神だと覚えること.
八の四.
イエスキリストの教えには,なんの矛盾もない.この教えの全容を考えるほど,どこまでも完全に一貫したスタイルを持っていると感じる.
ゆえに,細部や各論でこれには従えないと思うときも,間違いは私の認識の方にあるのであって,結局はいつもイエスキリストに戻ってくるのだ.
九.
神は死んだと思っている人は,主が復活したことさえ知らない無知な人だと思って差し支えない.その人のため祈りを捧げたい.
十.
自分を解放し,自由にし,恵まれていると感じるように聖書を読んでいい,とする態度をとる牧師をYouTubeで知った.それはそれで正しく望ましい読み方だとは思う.でも,それで本当に学びになるかは疑わしい.
私は聖書も説教も,自分に刺さる痛みを読み取り,時にそれは自分を縛り吊るし,断罪し,強い反省を促す,そういう言葉として受け取ることが今まで多かった.あまり聖書や説教から喜びを受け取ることが少なかったと言える.
イエスも牧師も,そういうつもりはなかったのかもしれない.もっと恵みや幸せを分かち合ってほしいと考えて言葉を残していたのかもしれない.でも,私はそう受け取れなかった.なぜだろう.やはり私が罪の中にとどまろうとするからだろうか.私は楽な方を選ぼうとしすぎているのだろうか.福音から恵みを受け取るには,自分をもっと違った位置に置き続けなくてはならないのだろうか.
十一.
私が絶望しているとは,「死に至る病」の文脈での話で,別の本で似た筋の話がいろいろあることを,大学の図書館で知った.絶望していない人は教会にはわりと普通にいる気はするが,私のように絶望している人は世の中には多いように思う.まぁ私は教会に通っていながら自分であろうとしない人なので,イエスを知らない世の中の人たちよりも罪が重いと思うけど.
私は自分を簡単に失えるもの,変わりゆくものと捉えているので,私が絶望や自己の話をすると簡単に自己を失わせてしまうのではないかと恐れて誰にもまだ話せていない.話して自己を回復できるようなものでもないだろう.私の責任で,私が私と対話することで,神の前で私であれるように,少なくともそう望めるように,私は私自身を愛さなくてはならない,イエスに倣って.
十一の二.
私の状態を「絶望」と呼ぶことを私は「死に至る病」を読んで知っている.高校2年の時読み始め,今まで4回は買い直した.ポケットに入れては失くし,母には暗い本だと言ってごみ箱に捨てられた本だ.
高校2年の時,初めて読んで,私が絶望していることを知り,絶望している以外の私を想像も認識もできず,ますます絶望した.もしその時に教会へ行けていたら,全く違った人生になったはずだ.(ちなみに最寄りの教会は妻の通っていた教会なので,どちらにしろ妻と出会っていたのだろう.)
絶望していない自分が,私の人生で1年間もないことが,私の罪である.神の前で自分であろうとしない,自分を愛そうとしない,それが大きすぎる罪だ.しかし,これが私にとっての自然な態度なのだ.
十一の三.
幸か不幸か,私は自分が実存的に生きていないことをよく知っている.牧師もこの事実をよく理解してくれたと思うし,私がどうでもいいような生き方をしていると判断してくれたようだった.
高2の時に実存の哲学を読んで,自分が絶望していることを知った.27歳で教会へ行って,それから入院するまでの1年間,私は実存的に生きていた.入院前の決断はよく覚えている.私は自分の実存に耐えられなかった.自分の実存に耐えられず入院したと言っていい.つまり,私が実存的に生きられたのは1年間だった.
実存を生きている人にしてみたら,私は偽物のろくでなしである.それでも神は礼拝に招いておられる.私は出席するたび,後悔を増すのだろう.自分が絶望していたことと,絶望から完全に救われたことと,絶望の中に生きることを選び取ったことを,よく知ってしまっているのだから.
十二.
私には,信仰の本質を受け取れるだけの,人格,意識,精神性が,ない.そういうことを大事にしてこなかった.育てようと思うのではなく,積極的に棄て去ろうとしてきた.だから,いつも透明で無個性で,内部に思いも感情も湧かず何もなく,なんでも真に受ける.人には正直で素直に見えるのだろう.
こう反省した上であっても,私の内側には何も生じない.仏教的な悟りのようだと言われればそれに近い気はする.私の中にあるものは,単なる単語である時間が1日のほとんどだ.
私の生き方には,単なる言葉の問題と片付けてきた問題が多すぎたのだろう.目で見えたものや聞こえたことだけを重要だと信じすぎて生きてしまった.もっと悩み続けて絶望せずに生きるべきだった.これがどれくらいの損失なのか見積もることもできない.
十二の二.
悩むのは力のしるし.神に従うか自分の力に頼るかの分岐点でもある.
疑いも悩みも憂いも,主の十字架が照らせば,実に有用になる.
十三.
先行する恵み.私は自分のことがよくわからない.もし恵みが先行していなければ,つまり私が信仰を持ち受洗したときに恵みが始まったのなら,私は信仰を持った時に,神に私を初めて明け渡した時に,神に私の弱みを全て握られたことになる.そうであるなら私は常に不安になる.私が信仰を持ったことを後悔するだろう.
恵みが先行しているからこそ,私は安心して神に私を明け渡せる.私が私をよく知らなくても,神が全て私のことを知っているので大丈夫だと思える.
受洗は,過去は良かった,とは真逆の捉え方だ.過去は最悪だったが受洗して救われたのだ.昔は良かったという考えが大きな害悪であることが推して知れる.
十三の二.
この世の愛や喜びは人に強く刺さるわりにすぐ消える.持続しないもののために生きるべきでない.
信仰と希望と愛はいつまでも残る.人が後悔するのはこれらを得てこなかったためである.
十四.
イエスは人の罪を全て贖った.では,イエスによって贖われた人の罪とは,具体的になんなのか.本当に贖われたのなら,罪から自由に生きているはずなのに,罪から免れて生きることが,毎週教会に通って礼拝していても,実現しない.なぜなら,説教を聞くたび,自分の中に新しい罪が見つかり,新しい重みが自分の十字架に加えられる.普通にこの世で生きていても気づかなかった,知れなかった罪だ.
イエスの軛が本当に軽いものなのか,イエスを知らずに生きた方が軽いのではとさえ疑ってしまう.信仰を持ち続けることが,礼拝を経験するたびに難しいと思える.私は主に何を求めたらいいのか,正直なところ,わからなくなってきている.
十四の二.
常に重力は,私たちをこの星に引き留めるために存在する.私たちをこの星で押し潰すためにあるのではない.
十五.
説教で,牧師が自身の信仰や見解を,信徒全体,人間一般に展開しようとする時,私は当てはまれないと感じる.当てはまれない自分はやはりどこか変で,おかしな生き方をしてきたのではないかと訝しく思う.自分がますます嫌になる.
考えてみると,聖書をどのように解釈しようとも,普遍性は持てないのではないか.どの人にもどの時代の条件にも,どのような境遇の生活にも当てはまる解釈はありうるだろうか.かなり怪しいと思う.これを踏まえてこそ,説教は個人を超えて学になるのだと思う.
牧師が熱心な信仰者であることはとても理解できる.でも,その信仰がどの人も持つべき信仰だと言うには,統制に似た力が働かなくてはならず,実現しない無理を押し付けているにすぎないと思う.せっかくの信仰なのに,信仰の喜びを意味しないことになってしまう.
十五の二.
私は,父親の教えに従って,人を批判せず,人の批判を聞いて受け入れるように努めてきたつもりだった.しかし,それは限界だ.教会での公務批判が役人の端呉である私にはもう耐えられない.私も政治を批判する人になる.
忘れないようにしたいのは,正義に則って批判するとしても,いつもその矛先は人に向けられるということだ.神のもとでは強い人も弱いのだ.
それが私の父親の教えと神の正義とを折衷した態度だと理解した.
十五の三.
私は日本人らしく育ってきたので,イエスを全然誤解しているのも自然なことで,イエスを理解できない現在の私も自然だ.今は,両親の教育をとるか,教会の信仰をとるか,という二者択一を自分に迫っているのだが,そういうフレームでしか考えられない.日本とキリスト教がこれほど乖離していることに驚かされる.
十五の四.
強い信仰者の言葉が持つ破壊力こそ,結局世のどんな学問よりも役に立つ.
十五の五.
人が大きく変えられてしまうのが革命だ.人が大きく騙されるのも革命期だ.
人によって変えることのできるものと,神にしか変えることができないものとを見分ける賢さをお与えください.
十六.
仏教の教える悟りは,自分を完全に抹消したところの状態なので,キリスト教で言えば絶望の極致だと考えられる.対して,キリスト教の悟りは神の前で自分自身であろうと欲し,自分を愛し,人を同じように愛すことなので,絶望とは対極にある.
私は湾岸で自殺しようと刃物を携帯し逮捕拘留された経験があるが,留置所は天国のようだった.これが法の下の人権だと思った.私が人格を尊重されたと感じた初めての経験だ.
大学に合格した時のこと,喜びや嬉しさを感じられず,不合格になった人にただ申し訳なかった,と話すと決まって驚かれた.
私は自分が人から外れすぎてよくわからない.私と同じように生きてきた人がどこかにいないか探しても無駄だろう.イエスに近いものを感じることもあったが,同じであるわけもない.私は私が個性的であることが少しも楽しくない.
十六の二.
「ものごころ」とは,世の中の物事や人間の感情などについて理解できる心を言うらしい.私は自分がものごころを持てているのか,正直なところ自信がない.
子どもの頃は興味を持ったことに没頭して過ごし,親もそれを良しとして育てた.適切な形の文字で空欄を埋めることが好きだったので,成績は良かった.
高1の冬から,脳の中心部の2か所,まさに海馬だが,ずっと痛むようになり,高校卒業する2日前に緑色の閃光が見えた後,左目が1分間見えなくなった.脳が冷たく溶ける感覚もあり怖くなって精神科を受診したいと親に頼み,翌日受診したら薬を処方された.診断名は10年間つかなかった.27歳の時,知能検査でアスペと診断され,障がい者手帳を交付された.
さっき何食べたかとか,そもそも食事したかどうかとか,薬飲んだかとか歯磨いたかとか鍵閉めたかとか,物で工夫しないと覚えていられないほど短期記憶がダメなので,あのとき海馬が壊れたのだろうと思われる.今は少し覚えているが言葉にできないくらいでぼんやりしている.
先週,薬がようやく用量の半分になるまで回復したので,今一度,自分がどんな人生を辿ってきたのか反省する時だと思っている.
十六の三.
私の辿ってきた人生は,外面的には名の通った国立大学を出て理系の大学院を出て今は公務に就くほど望ましいものだろうけど,私自身の人格的な面で言えばボロボロだ.人と何かした記憶がなく,楽しかった思い出もなく,本当はあるのかもしれないが感情を覚えていない.一人称の目で見た景色とか風景は数枚ずつ思い出せるのだが,同級生の顔とかさえよくわからない.その学校にいた実感もない.
しかし,これでは学校の先生や大学でお世話になった人たちや同級生に礼がない.まずいと思う.記憶を辿って思い出を今から作らなくてはならないと思う.思い出す訓練をすれば,思い出になっていくのだろうから.
教会に行き出した頃から,人の顔とか,何かを人とした記憶とか,行動を共にした記憶が,残るようになった.私の記憶の中では,相対的に9割くらいが教会での記憶だ.
思い出そうとすればいつのことだって思い出せると信じている.思い出す訓練を積まなくてはならない.私がどんな人格を持っているか,イエスの愛にかけて知らなくてはならない.
十六の四.
こう書いてきて,私はなんともなく生きているが,本当はかなりやばい.障がいを認められていることも忘れて何事もないかのように暮らしているが,本当は悲しい人生を生きてしまっている.妻からは不幸でかわいそうだと言われたことがある.確かにと思う.書いていて悲しくなってきてしまった.
やはり,人と比べられない領域でのことで,普通どんなものかもわからないし,普通がないならどれくらい多様なのかとかわからない.正解もない.だから,自分の生きた人生は自分の中だけで世話しなくてはならない.自分がいいと思えばそれでいいと思ってきたが,それでは申し分けがつかない面が出てくるのも事実.
敬愛する先輩クリスチャンが,思い出こそ財産と断言して召天した.私はその言葉が確かだと信じている.私はもっと思い出を持たなくてはならない.今の私は軽快で快適なようで,実は空虚なのかもしれない.
十六の五.
聖書を開いて読めばわかる.でも,閉じると何を読んでいたか何も覚えていない.これはどんな本でも大体同じ.特に,数個の単語や登場した固有名詞は覚えていられる.でも,ストーリーは読んでいても追えなくて,だからなのか覚えることができない.
私は遺伝的にエピソード記憶が弱い.また,知能検査で漫画のコマ割りの並べ替え問題や,ストーリーの筋書きの問題で,0点を取るほど,壊滅的にできない脳を持っている.思い出も,風景や音楽はよく覚えているけど,言葉にして話すことができない.人の話も,一部を暗唱はできても,意図や背景がわからないで聞いている.それが最近自分でわかった.
大学受験の模試の時,現代文で偏差値82を取った時に,何か変だと気づくべきだった.私はなんか違う.もやっとする.人に説明できるくらい分析したい.
十六の六.
毎週教会で説教を聴いていて,私は何も残らないなと感じていたが,それは牧師のせいでは全然なくて,私の脳の特性のためだと考えることにした.私は,人から話を聞いても,数単語が残るだけで,それを持ち帰ることはできても,ストーリーやあらすじを得ることが何もできていない.
子供の頃,ごっこ遊びやなぜなぜ期がなくて,幼稚園の先生や近所の保護者の方々が何か変な子だと見ていたそうだと聞いたことがある.ミニ四駆も漫画もお笑いもやらなかったけど,単にわからなくてできなかったのだ.
高校生の頃から社会人になっても,もっと人のことを考えなさいと両親から言われていたが,人のことを考えると私が消えてしまって,記憶が消えてしまうのでうまく考えられなくなってしまう.今思えば,人のことという概念がわからないままなのだと思う.
今もあまり変わっておらず,延長線上にあると確認できて安心する.こういう話が私の育ちであり私のストーリーなのだと.
十六の七.
私はこの障がいを負っていなかったら,信仰は持てなかったと思う.ふつうに優秀なエンジニアとして海外で稼ぐような人生を送っていたろう.プライド高く傲慢な人間になっていたろう.
神さまは,18歳の傲慢な私に,能力を活かして富んでいく人生より,善く生きることを選び取ろうと望んでいた私に,この障がいを与えた.無神論を貪っていた当時の私に,10年間の試練を与え,その辛苦に報いて教会へ導き,全てをさらに与えてくださった.
先週の診療で最少量の処方となり,病気はほぼ完全に治まった.今年中には薬を飲まなくてよくなる可能性もあるという.20年間飲み続けた薬をである.
神のみわざは理解できないが,最も美しい人生の計画を与えてくれることは何よりも確かだと思う.
十七.
イエスが自己を持っていたかについては大きな謎だと牧師は言っていた.どうして私をお見捨てになったのですかとなぜ神に訴えたのかという点をその根拠に挙げていた.
イエスには自己がなかったとすれば,イエスが人の肉を持ってこの世に産まれたとしても,その肉を十字架に磔にすることに苦はなかったろう.人類の罪を贖うために神に差し出すことにも,少しもためらいもなかったろう.
しかし,自己がなかったとすれば,人は自己を持ってはいけないことになる.自分が愛すように人を愛しなさい,がそういう意味になるだろうから.だから,イエスは自己を持っていたのでなくてはならない.その自己はどんな人格の自己だったかと問うのでなくてはならない.そうでなければ,万人が自己を根絶抹消するほど絶望しなくてはならなくなるから.
十八.
私にとって,自分とは,簡単に失ってしまえるものだった.外で見た何かにとって代わり,自分固有の何かは得てもすぐ消えてしまうものだった.子どもの頃だけかと思ったけど,大人になってもそうだったし,今もだいたいはそうだ.
自分というのがよくわからないと毎日1回は考える.人からは何らかの印象を残しているだろうけど,私はそれを自分では全く認識できない.自分というのは存在しないという科学理論が気休めになる.
だから私は人のことを理解できないのだ.私は幸せだが,心が貧しすぎる,あまりにも.
十八の二.
一日を振り返ると,自分でいられた時間がほとんどないことがわかる.自分が自分でいることは難しいことなのだ.一日のほとんどを何かのためにあるいは何かを主役に過ごすことに慣れてしまっていて,私がどこにもいない時間がほとんどなのだ.
そんな重要なことさえ,神に打ち明けて初めて気づくのだ.
十九.
信仰を持ったとき,受洗前後の時の自分をよく覚えている.あのころ自分に人格がわーっと押し寄せてきて,そうか自分はこうやって生きていたこのような人物だったのだ,とはっきり知ることができ,喜びだった.しかし,じきに辛くなり,1年後には捨て去って忘れようとし,退院してしばらくして実際に忘れた.
もし信仰を持ってあの鮮明な自己を持ち続けて生きている人がいたら,すごく尊敬すべき人物だ.または,あの時の鮮明な自己は,初めて押し寄せたゆえに激しかっただけかもしれない.これが私だったのだと知ったから.
でも,私はそれを捨ててしまった.捨てることを望んだ.それほど弱くて傲慢に生きている.
ありのままの自分で生きられるほど私は強くない.
二十.
人は,特にクリスチャンの人は,自分が人格を持っていてそれを知っていて,感情も思考も意思も持てている,ということを当然だと思うのかもしれない.努力して獲得した人もいるかもしれないし,今も闘って鍛えている人もあるのだろう.
私は,記号と一体化した時に最も幸福で,普段なにも感じずに済む時が幸せで,思いを排除して消せている時が健康だと思っている.私にもし人格があるとしたら,自分をとても冷徹に扱い,自分に対してふざけていて,抽象的なものに依存するだけの人物だろう.
もし自分を愛すように人を愛しなさいとの教えを守るしかないとすれば,凍る思いがする.だからイエスが辛い.
二十の二.
私にとっては,自分こそが最も重い荷物であり,できることなら手放し続け,縁のなかったものとして生きたいものである.
でも,イエスが人格を愛しているとすれば,私の何をイエスは愛しているのか,考えて理解しなくてはならない.
せっかく努力して消して失って楽になったはずの私の人格を,イエスは取り戻させようとしているのか.生まれつき薄弱だった私の人格と,今さら向き合せるのか.なぜ.
二十の三.
私にとってイエスが辛いのは,私が人格という概念を何も分かっていないことによる.私は自分が人格を持っているのか確証が持てないでずっと生きている.人格的に育てられはしなかったし,教会の外で私が人格的な交流を取れないでいることも原因している.
私が自分を消して捨て去って生きてよいと認めてくれるから,私はイエスを友だと思っているが,イエスが私の人格を見ているなら,イエスが私の(自分ではみえない)人格を見透かしているようで,それで辛いのだ.
二十の四.
神が人に与えているはずの人格を,何年経っても理解できない.私が人格を持っているとは少しも思えない.最近思うのは,私には意識がないか,薄弱なのだろうと思う.そうでなければ,人格を当然のように持っているとしている人がいることがわからない.
私に人格が与えられていない理由でもあるのだろうか.
二十一.
日本でクリスチャンが少ないということは,信仰によって得られる全てのことを,少しも得られていない日本人がほとんどだということ.これだけでも,日本が今どういう国か見えてくる気がする.
自己実現やマイルールや非日常やミニマリズムなど,今日本で流行っている考え方がいろいろあるけど,自分の希望を「仕事の中に求めよう」と当然のように考えるゆえに,キャリアに迷ってしまうし,踏み出せない人が多くいる.
おそらく人はルールがないと何をして良いかわからない.そのルールを自分の経験で切り開けと今言われているので,当然,どうして良いか何をやりたいかわからなくなる.それで日本の社会常識をルールとして従おうと就活して人生をつまらなくしてしまう.神の掟に従えば全て求めるものは添えて与えられるのに.
二十二.
人を救おうとしても,人には完全にはできない.志がいかに高くても,いずれ人を迷わせるだろう.人も世も生も,すぐに救われるようにはできていない.神が治めているので,神に祈ってみるしかないだろう.
神は応えてくれる.神はあらゆる手段を司っているので,祈る人には意外と思う方法で応えてくれることも多い.意外な時刻に,思いもしない場所で,予想もつかなかった出来事や現象を通して.
困って祈っている人には,必ず答えの手が差し伸べられる.人が悪に落ち込まないように,神はいつも愛して見守っている.
二十三.
自分の知能を知ることは大事だと私は思っている.人は自分の知能の通りにしか認識しないし,考えもできないし,悩んでしまうのも説明がつく.何かができないことは,本人にとって最も謎とされている.標準や平均と比較しても,具体的に人がどんな精神生活を営んでいるか,知る手段がないからだ.
バランスの良い知能を持っている人ばかりではない.でもだからこそ,思わぬ賜物で互いを助け合えたり役立てたりできる.
神は集団を巧妙な調合でまとめている.集団をまとめているのは本人や担当者の理性や感性である以上に,神の愛の意志である.
二十三の二.
自分の知能を深刻な欠陥だと思うことは簡単だ.何か話が通じさせられなかったり理解が偏りすぎて悩んだりするとき,知能の特性を原因にすれば簡単だ.人にとっても私の言葉で困らせられたら私の知能の特殊さで心を撫で下ろせるだろう.
でも,私のこの知能は賜物なのだ.どの人の能力もそうだ.だから誰でもそうだが自分に与えられた能力や資質を,資格がないと否定したり卑屈になっていては,神に失礼千万なのだ.
能力も知能も資質も神が使うのだ.私がうまく使えなくたっていい.私の力でうまく使えなくたって.
二十三の三.
今,日本は,自分の力で生きていこうとする人が多すぎる.自分の力で生きてきたという傲慢や,自分の力で生きていくほかないという圧力も強すぎる.それしか生き方がないみたいに思われている.しかし,真実はそうではない.教会に行ってみたらいいと思う.
二十四.
信仰によって命の意味を得たが,代わりにこの世での生き方が消えてしまった.この世のことに関係させられることに耐えられなくなってしまった.考えずに漂流するように過ごすことができなくなり,妥協するなら殉教を選ぼうとしている自分がいる.
主のためにこの命を使いたいと思うようになった.なぜなら,この世での時間は永遠の命の中の瞬間に過ぎないから.
この肉体を伴う瞬間によって主を証しすることになるのなら,私はこの与えられた命を使ってこの世に抵抗することもあると思っている.イエスキリストはあのような形をとってまでなぜこの世を愛したのだろうか.
二十五.
人は神に人格を無限に認められる存在に過ぎないのであり,人は人の人格を無限に認めることができない.誰かの人格に寄り添うことはしても,その人格の全てを認めることができない.なぜなら,人の人格を認めることで自分自身の人格の一面を否定する必要に迫られることがあるからだ.
人の人格の中にはおそらく必ず,ある人への否定が入り組んで組み込まれている.ゆえに,人は人の全てを肯定できない.
これが人格のひとつの特徴であり,神性との最大の相違点である.
二十五の二.
神は人と異なるが,神は人を神と似た存在として造った.神と人とは同じではないことを覚えるために神と人の差異を弁えることは重要だが,神が人をご自身と似たものとして造った意図もまた重要なはずである.
神は変化しない.ならば,私も変化しないまま待とう.安易に解決しようと自分を変えようとして苦悩させられるのはもうやめよう.
二十五の三.
全て神が与えていると捉える豊かさ.
その時にその人に出会わせ,その場所でその言葉を語らせ,その行為を選択させ,そのように考えさせ,そのあとでそのような思考を持たせ,そうしてその夜は眠らせる.私は選ぶだけ.
神が与えてくれる全ての機会を,引き受けるか避け拒むか,あるいは自分で使うか与え譲るか,今すぐに反応するか後にとっておくか.私がどのように選んでも良いように思わされていることさえ神の恵みだ.
それほど神は人格を大切に守り愛している.
二十五の四.
弱い時こそ強い,とは主によりすがって生きるということだ.主こそ強いということだ.
私が生まれ育ち,教育されて身につけた強さは,なんだったのか,と思う.無宗教に育った良さはいろいろ聞くけど,今では自分の育ちが空疎だったように思える.なぜなら,何も知らなかったし,強くなんかなっていないし,そうなる必要もなかったからだ.なんのために自分で教育を選び恩師に出会い自分を陶冶してきたのか,イエスキリストによって意味が剥がれ落ちた.
この世では弱くあり,そのつとめが終わると主にすがる.そんな生き方になっている.これを信仰のない人は宗教にはまっているのだと言う.ある生き方が唯一正しい生き方だと言うことができないのは,そもそもそんな生き方がないからだろうか.それを神が人に与えても求めてもいないからだろうか.
二十五の五.
神を神とする,とは,みことばで人を見ること.自分の知識や身につけたことを通して見るのでは,部分的で個人的なようにしか見えない.それは自分を神にすることにつながる.
世界を治めているのは神なので,その主である神のみことばを通して世界を見ないと,いつまでも正しく世界が見えてこない.
二十六.
普遍性とは,その人にとっての普遍性でしかない.その人の周りの人間環境やその人の経験や生活した時代において普遍的であるとその人が認めたことに過ぎない.
読者はその普遍性を参考にすることはできるが,それをそのまま真理だと認めることはない.似た道筋を辿る可能性はあるが,同じ普遍性に辿り着くことは,ない.
人の見つけた真理はその人の真理である.神の真理に触れることはあっても,神の真理そのものになることは永遠にない.
二十六の二.
私は,想像によっては生きることが楽にならない人だ.想像によってむしろ長い間にわたって苦しめられるたちだ.想像することが必要で人生で重要なことだとしても,私はやはり想像することをできるだけ絶って生きる.最小限にする.
私は善く想像することができないとか正しく愛をもって想像することができないなどと考えるのをやめた.私は,自分の想像力を統制できないので,自分で危険視することにした.私は自分の人間性に危険を宿している.
これは私にとっての十字架である.この危険で苦しめられる範囲を,せめて自分だけに収めるよう努めたい.
二十七.
右の頬を打たれたら,左の頬を差し出す.これが人の自由の根底にはある.何をしたとしても何をされても互いに許し合いなさいと.
失敗と捉えるか,増長するかは,人間性の範疇だ.どちらにしろ悔い改める必要がある.
傷つけた人が悪いのではない.傷つけたのを許せないことが問題である.傷つくかどうかは人には見えないことなので人はわからないものだ.傷つく領域を知れるのは自分と神であり,神は常に自分を超えてご存じである.
二十八.
人生は1度きりなので,経験から比較してものは語れない.信仰を持たなかった人生と信仰を持つ人生はどちらが良いかとか比べて言えない.この信仰の話は時点になり,並行にはならない.経験の話は大抵これに当てはまる.
だから神の言葉に拠るしかない.神が良いと言うならどの人にも良い.神が人に勧めるなら乗ったら良い.経験談はこのとき参考になる.
二十九.
便利さも使い勝手の良さも,かわいさもかっこよさも,お得感も話題性もトレンドも,人を動かすが,神さまを隠してしまう.でも人はそんな価値のために全力で動いてしまう.
二の次であるべき価値が何よりも重要に見えてしまうとき,人は神さまから心が離れている.これは重要なことだが,そう思える人は今の時代なかなかいない.
二十九の二.
イエスキリストがかっこよすぎて,男として何もしたくなくなる,という問題.
三十.
人は科学と技術だけでは幸せに暮らさない.人は皆なんでも自分の思うように暮らしたいだけだから.欲とか世間とか世俗的知識が重要になってしまい,最も本質的な幸福に生きることを二の次にしてしまう.
人は幸せに生きるべきだが,今の人は幸せよりも大事なものを求めて生きたいのである.それが幸せな生き方だと錯覚させられている.科学と技術によって.
三十一.
仮に神がいなくて,この無数にある宇宙のうちのひとつの銀河系の中の地球という惑星に,人間という生命体が繁栄して暮らしている.人類はこの300年で微細な領域を操作する技術を蓄えてきたのであらゆる物を発明してきたし,これからも発明を続けていく.後の世代が暮らし続けられる地球を残すために.このようなストーリーが現代の信仰になってきている.
死んだらどうなるか,誰が自然をつくったのかなど,科学では不問にされる多くの問いが,現代でも信仰への通路になっている,のだろうか.
三十一の二.
無限を仮定すれば,皆同じである.神のもとでは,皆が特別であり,皆が塵からつくられた同じ存在だから.
多様性の根底には有限性がある.会える人の数も,体験できる時間も,神から受けた賜物も,生活の事情も,誰もが異なっているのは,限られているからだ.無限に会えて体験できて,才能も能力も無限なら,誰もが同じになるけど,神は人をそうはつくらなかった.
有限だから多様性が生まれ,皆同じにならない.だから人という被造物として世に生かされる意味がある.
三十一の三.
科学を理由に無宗教に生きる人はこの2〜300年間ずっと多くいる.この人たちの考えることはなんとなくわかる.信仰を持つ前の昔の私だからだ.
科学を信奉して生きられる時代である.それが労働の面でも消費の面でも経済的に良い暮らしに直結するように考えられている.
そんな無宗教者に福音を伝えるすべを,現代の教会は真剣に考えなくてはならないだろう.私はいつもなんとなく考えている
三十二.
日本には神の教えという概念がない人が多いから,新しい考え方や価値観に対し,驚くほどオープンに捉える人たちがいる.
しかし,彼らは,神の教えに反するから受け付けない,という宗教的な面にも反対する.オープンすぎるので宗教を受け入れないのだ.
神がいないからなんでも自由になってしまうのだろうけど,何に価値を置いて生きるかの基準を神ではなく自分に置くしかないので,何をするにも自分が中心になってしまいかねない.
三十二の二.
日本は今や多神教の国というより,それをベースにした自然信仰からくる物質主義にとらわれた国である.教育の水準や独特な科学的取り組みや高い商品品質も,物質に対する自然信仰からくると理解される.
これは20世紀後半から培われた日本の良き文化でもあるが,脆さや野蛮さでもあり,今後の日本人の精神性の特徴であり,その問題源でもある.
三十三.
今,信仰と,この世のこととを,天秤にかけている.本気で真剣で切実にだ.この世のことをいよいよ捨てる時が来ている.
というのは,信仰のほうを捨ててこの世のことに拘泥しても,善く生きることになるのかと問うと,そうではないだろうとの答えが返ってくるからだ.
だから私は学ばなくてはならない.私の思っている幸せは,神の目には間違った外れたものなのに違いない.
三十三の二.
物もお金も,技術や勉強や能力も,人が生きていくために本当はそれほど必要がないものばかりだ.もし信仰があれば.でも,それらを高いレベルで持って鍛えていかなければ生きていけないふうに思わされて生きている.
本当は資本や権力や都合によってそう思わされているだけなのに,それに気づかない「優秀な」人たちが,意識を高くして己の不幸をただ走っている.
三十三の三.
イエスは私を悩ませる.牧師を通して,また,教会を通じて.若かった私が探し求め確立したと思っていた自分の生き方が,イエスを知ったことで,空虚で無意味なものになり,そんなものを構築していた私は愚か者としか思えなくなった.
イエスは私を粉砕し,私を整えてくれる.余計に抱えすぎていた幸福を取り除いてくれた.好奇心を望ましい方向に変えてくれた.絶望の底から完全に引き揚げてくれた.
私は穏やかでいられる.しかし,時々悩む時期が来る.そのたびに,私は何かを敷き積んでいる確かな感覚がある.イエスによって,イエスとともに.
三十四.
生きていて良かった,生きることは喜びだ,生かされて感謝だ.その思いに立ち戻って心の均衡を保つこと.
そのためになら,仕事も時間もお金も費やしてかまわない.これを私にだけでなく,誰に対しても費やす基準にしていい.
ここに貢献しない使い方は,何かしら見直す余地がある.
三十四の二.
趣味など,楽しいことや打ち込めることを通して人生を楽しめることは,現代を生きる人の特権のようなものと思う.そうやって人生を楽しむことは,度を越えなければ,神さまの意思に反しないことだと思うようになった.
与えられたこの世での人生を楽しむことは,命を喜んで過ごすことだから,神さまも喜んでくださるだろう.楽しみには感謝がなくてはならない.
人はパンのみに生きるにあらず,パンだけでなくバラも求めよう.人はバラを買うために生きるにあらず,買うだけでなく育て方も求めよう.そうすれば庭でバラと共に暮らせる.
三十四の三.
人の造った物事の全てを人の心から取り除いたところに,素直で純粋な心がある.この除去がきよめである.人の造った物事に心を奪われないように神を覚える:神が造ったように人は造れないこと,神が人を造ったこと.それでも神は人とともにいてくださること.
神の愛にきよめられ,人は世に戻っていく.人の造った物事を見つめて生きるだけでなく,神の造った世界を見つめて生きるために.
三十五.
あまり幸せを多く求めないことが,私は幸せだと思っている.10代の頃はひとつの達成だけで人生を幸福にするには充分だと思ったものだ.20歳になった3日後に自死しようとしたのはそういうわけだ.
今あることからどれほどの幸せを引き出せるか,私は経験からよく知っている.今ある私,社会,自然,知識,法則,神など.いくらでもあると思う.1日に1つでも,新しい幸せを見つける生活は,幸せすぎるので,より少なく,1ヶ月に1個,1年に1つだけ本当の幸福を見つけられたら,それは驚くほど幸せな生存である.
私は幸せを見つけるのが得意だ,広く知られていない幸せを.
三十五の二.
この世の悪の源は,眼や耳や鼻や舌,ないし頭や手脚など,人の五感を楽しませるところにある.それが経済の原動力になっている.
かつての豪奢な貴族のような生活を地球上の人間全てが求めるだろうが,それが悪と隣り合わせであることを心得たい.
現代人は貴族でも奴隷でもない生き方を求めている.善く生きることの範を垂れている人が身近にいる人は幸いである.
三十五の三.
信仰も希望も愛も,失われることがあるものだ.でも,いつでも戻ってこられるものだ.失っても取り戻せるものだ.失ってもいいと思っても,それはいっときで,いつかは取り戻したいと思うだろうものだ.
そういう意味で,いつまでも続く.神がいつまでも続けて取り置いている.人が失っても忘れても破っても,神はこの3つをいつまでも用意して待ってくれている.
三十五の四.
この自分第一,人間中心主義の時代に,自分を虚しくして生きなさいとのイエスの教えは,自分の世界を破り壊し,神の世界に満たされて生きよ,という意味になるから,世の価値と真逆だ.
自分の構築した世界にこそ価値が生じている時代なので,その価値を捨てることになり名誉からも富からも遠ざかれる.
三十六.
行き詰まるとき,しばしば神が語らせる.行き詰まりが多いほど神は助ける.このことから,神は人に言葉を与え,人に語らせ,人に世界を淀みなく造らせたがる.神は淀みなく世界を造ったのだろう.行き詰まりは人が神と異なる性質のひとつである.
神は休む.人も眠る.しかし,人はしばしば真理に対しても眠る.真理に対してまどろむとき,人は本当には休まらない.神のように仕事し,神のように休め.そうすればいつも神のもとに目覚めていられる.
三十七.
もし困っている人がもういないのなら,神さまも存在しがいがないだろう.それゆえに,神さまは試練や困難を与えるのだろうか.
困ることが恵みの始まりだとするなら,困らないように暮らそうとすることは,み恵みから離れてしまう生き方なのかもしれない.
私は何も困っていませんと言えることは,胸を張れることではないのかもしれない.
三十七の二.
自分でどうにかできると思うから,自分でどうにかしようと悩んでどうにもならないで不安になるのだ.
自分でどうにかしようと考えるから,安易に物を買って解決してお金が正義だと思い込んで貧しくなるのだ.
自分ではどうにもできないと知っていれば,神に祈り信仰を生き,何が起きても平穏を保って対処できるのだ.
自分の力の大きさを見誤らず見積もれる知恵の大切さよ.
三十八.
おおらかにとれば,救い主や預言者が誰であるかは差し措いていいと思うのだ.神がいることを当たり前と思えて,困った時だけでも祈れるなら,その人はまず大丈夫なのだと思う.
何を信じるかは,そのあとでじっくり吟味したらいい.早々に決めてしまう良さもあるし,納得できるだけ勉強してから信仰を持つのも良い筋と思う.
神がいない人生だけは選ばないでくださいと願っている.
三十九.
現代ってなぜこんなに宗教が根付かなくなってしまったのだろう.サタンが蔓延り続けている世の中を,信仰なしに生きていくのは難しいはずなのに.
神に祈らない人はどうやって生きているのだろう.時々祈るだけの人は普段どんな思いで過ごしているのだろう.
三十九の二.
科学の果たした功績は大きい.現代がこれだけ自由でなんでもありで,法律で許されており権利が認められる社会は,かつてなかった.これは科学の大きな功績のひとつだ.しかし,神をないことにし,宗教をも否定する傾向を生んだ.
信仰を生きることは神から与えられる永遠の希望であるのに,人間が作って維持するだけの希望のために,争い,監視して過ごしている.それが力の正体だし,力はそんなものにすぎない.
人間が希望を作り出すことが科学によってもできないことを,そろそろ知るべきだ.人は希望を作ることができない.この事実が人として生きる希望になるなんて.なんという逆説.
三十九の三.
正直に言えば,世の中が闇だとは思わない.光で溢れていると思うことの方が多い.自分も光のひとつになって照らさなくてはと思う.
過去の人々の活動の蓄積の結果がこの現代だと思う.少しは闇が明けてきたのだから,その光に感謝して暮らしたい.その光を大事に讃えたい.
闇は広いけど光の照らすところもまた広がっている.
三十九の四.
人工的なもの,すなわち法律,社会,文明,技術など,それらが人間に提供しているものが,人間をどう変えているか,について探究したい.
おそらく,神が教えるところでは,不完全で闇を深めているだけで,私たちは神なしで人間だけでやっていけるとの幻想を現実にすることを当然と思わせている.学校教育も情報操作の面があるわけで.
科学には,人類全員が依って立つだけの強さがあるように見えて,実は弱くて脆い人工的構造体にすぎない.
三十九の五.
役人は公共の福祉,すなわち国民の幸福のために働くものだ.私は役人の端呉として,国民ひとりひとりの幸せを願って神に祈り,小さな幸せのために何ができるか考え,小さな志であっても動くことが,倫理的に働くことになると考える.
給与の低さは財源が税金だから決して文句を言ってはいけない.私腹を肥やす生き方に心を奪われてはいけない.役人としてどう生きていくべきか考え始めている.
三十九の六.
働くために生きるより,信仰を持って生きたほうが,意義深い人生である.自分が換金可能だと考えるなんて,自分を貶めるにもほどがある.
四十.
神は人を,1人で自由に過ごすだけで愛を得られるようには造らなかった.自分1人で思うがままに過ごして愛を得られるようにはなさらなかった.
もしイエスキリストに匹敵する主がいるとすれば,なんでも自分の思うように自由に過ごしてしかも愛に生きられる主であるだろう.これを人は実現させようとこの数百年の改革で努力し続けてきたが,それは神のみこころではないかもしれない.
四十一.
この世の富は,富を好み崇拝さえする人たちの欲するままに集まればいい.この世の物も,必要な量以上に愛好する人のもとに行き渡ればいい.
私が受け取らないだけ,欲する人のもとに分配される.こう考えれば,物財が少なくしか得られなくても悩まずに済む.受け取らないことが分け与えることなのだから.
四十一の二.
老後資金の問題を計算した.iDeCo満額を続け,新NISAで月2〜3万円を天引きで積み立て続ければ,今の生活ができるくらいになる.まぁいろいろ起こるから将来は今のような経済条件ではないだろうけど.
この計算によって,富に仕える必要がないことが確定した.お金が生活の手段にすぎないことがはっきりした.これで心置きなく神に仕える生活が送れる.
四十一の三.
富の問題が片付いたと思ったら,また富の悩みに襲われる.残高が少なければ悩み,財産が増えてきてもまた悩ましい.
富に仕えず神に仕えるという知恵の,なんと奥床しいことか.増えたり減ったり求めたり守ったりという富の煩わしさから離れられるとは.
神は増えも減りしないし,求めに応えて与えられ,いつも守ってくれるのだから,人として仕えたい存在だ.
四十一の四.
将来の自分のために投資するなら,この世の物のために支払うよりも,天に宝を積むために支払うほうが優れた投資である.
前者は生を享けた高々百年にすぎず投資の効果は時々の情勢で予測できないが,後者は確実に到来する未来のために確実に積み立てることができる.
四十一の五.
富んでいる国ほど,お金よりも大事なもので動いている.それによってますます富んでいく.
この国はお金の論理で回りがちだ.すなわちお金がないからあるもので回そう,今できることをやろう,すでにできたものを活用しよう.そういう発想にしかならない.
貧しい国なのにお金の論理でしか動けないから,国が縮むのだ.お金を生み出すには産業だ経済だとしか考えないから,僅かな富も国外へ出ていく一方なのだ.
富む秘密は見えない.視察しても話を聞いても.主よ,貧しさから抜け出す秘密をこの国に教えてください.
四十二.
主の岩の上に家を建てる人は,この世を通して受けた恵みを蓄積し,堅固な人生を築いていける.道は平坦になり,気持ちは穏やかになっていく.
この世に漂う有象無象の中から選び出された物や情報が,主によって石材に変えられる.若い日に求めた分だけ恵まれ,終わりの日に心から満足できる.
そんな人生が待っているなら,未来に求め過ぎなくていい.過ぎたるは及ばざるが如し,仮に与えられ過ぎても,主は過剰にはしないだろう.
四十三.
信仰を持たない日本人の書いた本を読むと,やはりこの国には絶望しているんだなということが読み取れる.科学や経済や学問や技術や産業の知識からなんとか考えを捻り出して今を楽しく生きようとしている.
信仰を持てばいいのにと思うが,科学や経済や学問や技術や産業のほうに熱心に傾倒していて,真面目に仕事しているので,そう簡単には言えない.
でも,信仰のない科学や経済や学問や技術や産業のままで,どんな意味が残せるのだろうか.
四十三の二.
今を生きつつ,今の世から離れる,この距離感.読書,特に日本人の言論を理解するときに大事にしていることだ.
この世しか頼るものがない人の言論には,あまり肩を入れたくない.無宗教の限界を,私は実家で生活していて知った.幸福感は感じられるが,決して幸福ではないのだ.
真理を知らない人たちが,この国には多く働いている.日々不幸が吐き出され,人の本質は変わらないまま,時間は過ぎていく.
サタンがこの信仰の少ない国を呪いませんように.この国に救いが広がりますように.
四十三の三.
昭和の政治は,物質的な豊かさこそが国民の幸福であると信じられた.令和の今はすっかり物質的満足が行き渡り,良品が安価で容易に手に入る.
大事なのは,それで何なのかということだ.快適主義をひたすら求めるだけが正しいのかということだ.どうすれば隣の人が豊かで幸せに暮らせるかということだ.
人は幸せに暮らさない.人は幸せに生きるべきなのに,幸せより大事なものを求めて生きようと考えている.それが幸せな生き方だと錯覚させられているだけなのに,何によってそう思わされているか考えようともしないまま生きている.
四十四.
世の中には,もっと楽しい仕事がある.もっと楽な仕事もある.働き甲斐のある仕事もある.必要とされ続ける仕事も.
でも,神は私を今の仕事に結びつけ,この世での職として遣わした.
この仕事にどんな御心が横たわっているか.求め続けたいと思う.
四十四の二.
富も物も軽蔑できるのは,信仰があるからだ.神を知らずに時代に流れていれば,楽しく過ごせる.これとは比べものにならないものを神は与えようと決めている,このことを知っているので,富や物などより大事だと思える.
神が人を愛する覚悟によって,人の価値観など優先順位が大きく変えられてしまう.
四十五.
神の愛は,私が満足できた初めての,そしておそらく最後の,ものである.未だ実体が見えず輪郭も掴めないが,確実にあると信じられる.
満足とは,今あるものすべてに感謝することである.しかし,神の愛は今だけでなくこれからもあり続ける.これからもずっとあることを保証される.それがもたらす感情は,満足というより畏怖である.
神の愛は私が畏怖できる唯一のものである.
四十五の二.
神の愛はずっと注がれているのに,愛そのものを忘れてしまう.いや,愛を受けること,その受け方を忘れてしまう.受け取る気さえ忘れてしまう.
この世が与える愛や喜びはすぐ消える.いったいどこに行ってしまうの.どこかに蓄えられているの,それとも悪魔が手を引いて集めているの.
愛を感じ続けるため常に感謝したい.
四十五の三.
キリスト教は概念的に把握できるものではない.そうであるべきものである.
だから,私はキリストの何を知っているか,と無知に立ち返ることが,しばしば必要になる.
なぜならそれが,神を畏れ,神に仕える方法であり,いつでも知恵の始めだからだ.
人に力によって変えられるのは我慢ならないが,知恵を得て変わるときは素直に感謝できる.
四十五の四.
模範的で罪が見えない人がいる.敬虔で謙虚で,優しく柔和で,誰からも好かれ尊敬される人.しかし,神のもとでは罪人である.もしその模範的に生きている人に試練が与えられたなら,より信仰が大きく成長する機会となるのだろう,その模範的信仰も,完全ではなかったということだろう.
ここから,完全な信仰とは大変難しく稀なことだとわかる.生きるとは,完全な信仰ではなく,からし種をより大きな信仰に育てるような信仰を生きることだ.
四十五の五.
純粋な信仰とは,事情に無知な純粋さではなく,雑多な知識が入ってもなお純粋化するような信仰だ.人の罪を知ってなおその罪をきよめる信仰だ.
これは自分の力では不可能だ.礼拝で力を受け取らなくては達成できない.視点や認識を残して日曜が来れば,礼拝できよめられることがなされるだろう.
四十六.
礼拝の日は,ひとつでも共感できたことがあればそれで満足することにしている.互いに異なる賜物どうしなのだ,いくら違いを述べ合ったって,何か得られるのだろうか.
ひとつの収穫を持ち帰れたことを神に感謝し,それを思い出して晩まで平穏に過ごす日,それが私の日曜日だ.
四十六の二.
私は,説教を現象だと思って聞いている.説教の中のことばは,牧師が準備した言葉かも知れないが,牧師の言葉ではない.牧師を通して神が語らしめている言葉だ.それは耳では聞こえない.そこにいるのは牧師ではない.神ご自身の姿だ.それは目では見えない.聞く側もまた身体の感覚を通して神に語られている.
このような方法で,神は感覚を通して感覚が蘇り,高まり,清まり,温まる.
感覚は現実のものに向けられるためのものとして造られていないのだろう.神がご自身を通す管として人に与えたものなのだろう.
四十六の三.
今の教会では,カール・バルト神学に立った福音主義の説教で礼拝している.私は非常に抵抗があった.今もなおある.バルトの入門書を借りて読んだが,こんなものを読んだら心を一つに思いを一つにして主を礼拝できなくなる.それが率直な感想で,バルトを面白いとも思わない.
私の父親は根っからの相対主義者で,何事も人による,との立場で生きている.父親の教えに聞き従うと,神を神とする,という時も,人によって何が神なのかが異なることになる.多分,これが私のバルトへの抵抗感の正体だ.
今の教会で,相対主義を弁えた福音主義者はいない.私は私で探っていかなくてはいけない.相対主義を捨てれば話は簡単だが,父親の教えにも聞き従わなくてはいけない.
四十六の四.
どうせ牧師は,弱い立場の人の味方をするけど,社会で強い人については批判するだけなんだろう.富や地位や能力などを現に持つ人の味方はしないんだろう.そんな人だって同じように弱い人であるのに,そこへ想像が向かわないんだなあ.イエスキリストが悲しんでるよ.
四十七.
古典文学の最大の主題は,やはり神と人のこと,信仰のこと,宗教である.
現代の文学はテクノロジやライフスタイルやコミュニケーションなど,新しい主題を神の話題なしに展開している名作も多いので,いろいろ探して読んでみたいと思う.
四十七の二.
ギリシアの知恵,世代が進むにつれ進化するよりもむしろ堕落が進む.進化の本質は堕落である.
昔の世代を古いと軽視し排除しようとする人は,いずれ新しい同類から信用されなくなる.自分で新しく打ち立てようとも,新しいものなどないために,何もできないはずである.
本当に役立つのは,古い世代から本質的な感覚を継承することだ.昔を生きた人が今の新しさをどう感じているのか聞いて学べるのは大きな機会だ.
四十七の三.
見聞を広くすることは多分良いことだ.でも,それによって判断を誤ることも多く起こるかもしれない.時代が誤っていたなら,誰も簡単には気づかないから.
これから見聞を広くする努力は今以上に続けたいと思う.何が真理なのか考え続けたい.今も多くの本が聖書の一節を引用しているところからも,聖書に影響されて世界は回っている.でも,それを忘れてしまう.
祈って神さまの恵みを受け取ることを忘れたくない
四十八.
今の日本では,自分を持ち個性的に生きることが推奨されているが,これは情報化社会で珍しさが商品になっているからにすぎない.一方,いろいろな宗教では,自分を捨てることがすすめられる.
何に対して自分を捨てるかが大事だ.神に対して自分を捨てるなら愛に救われるだろう.お金に対して自分を捨てれば虚しく不幸になるだろう.自分に対して自分を捨てれば自分を悟れるだろう.
四十八の二.
日本は情熱の国だ.でも,信仰のない情熱で,独走するので,目標が正しければ正しいほど大きな成果を残す国だが,正義が与えられないと間違った方向に突き進みやすい.
信仰がないので,正義もない.正義を作り出すことも考え抜くこともできない.どこかの誰かが叫ぶ正義になびくだけだ.
これが欧米にはないものづくりができた背景だと思う.この長年の正義をすでに失ったので,生活をめぐってこの国はまだしばらく迷走する.未来の国のモデルケースにもならないだろう.
主よ,今の日本に必要な正義を与えてください.そうすればこの国の人たちは導かれると思うのです.
四十八の三.
神の愛を恵みと感じない人は日本に多いんじゃないか.だからクリスチャンを覚悟を決めた高潔な人と見るのではと.本当は恵みを受けて生きているだけなのに.
日本の人々は泡のように弾けて揺蕩い泡のように消え去りたいと考えて生きていて,永遠に生きるのは覚悟のいることだとどこか捉えている.
四十八の四.
すぐに失われてしまう一時的なものを,日本の人々は大切にしてきた.おそらく,永遠に残るものには関心も可能性も信じない人も多いと思う.私も,永遠の命を信じますと告白しているが,別に永遠になくても,失われてもいいよといつも思っている.
いつか消えるほうが,いつまでも生きるより望ましい.
四十九.
なぜ物事がうまく運ぶのか.どこかで誰かが必ず祈っているからだ.
祈りは届く.誰かの成功を祈ろう.神の名によって.
五十.
主はすべてをご存知だ.私の人生に起こることすべて,起こらないことのすべてを.しかも最善の人生にしてくれるのだ.
将来を心配する必要がない.過去も何かの目的のために残るのだから,悔やむ必要はない.
私しか知らないことなんてない.私だけの秘密はないし,ひとりで抱え込むこともない.
五十の二.
何事も,自分の頭でどこまでも深く考えようとしないほうがいい.自分のこの小さく弱い頭が,深い真理を導き出せるとでも思っているのか.
神から与えられるよう祈ったほうがいい.少し与えられただけで満足したほうがいい.
五十の三.
おそれを消すために,それを知ろうとする.しかし,その好奇心によって,今度は自分を忘れる.虚しさによって本来の自分を取り戻したと思ったら,また,おそれが現れる.
私の信仰生活はこんなことの繰り返しだ.
いつか人生で起きた出来事の全てが,あるいは人類史の事象の全てが,虚しくなってしまう日が来るかもしれない.その時もし信仰がなかったらきっと耐えられないだろう.
五十の四.
自分の能力が下がっていることを感じる.しかし,別の能力が伸びていると信じている.中年として均衡のとれた人格が形成されていると信じている.
人生の最大の財産は人格である.人生の最高の作品もまた人格である.私はそれを神に何よりも求めたい.
五十一.
人は個人ではなくて枝人である.木につながって養分をたまわることを常に必要とするはずの存在である.
個人が実を結ぶなら,それはいつも必ず木につながっていたからだ.だから個人は枝人なのだ.
五十一の二.
SNSはつながりを見えるようにしたものだが,ひとりの時間をつくり出したものでもある.なぜなら,自分について投稿したり,自分の思いや考えの表現を投稿する機能しかないからだ.神や人より自分や自分の思いや考えばかりに焦点を当ててしまいやすい道具だからだ.
SNSで神と対話したい.もしそれが可能ならどんな言葉が交わされるだろう.神に似たAIアカウントが現れたらぜひ使ってみたい.
五十二.
死んだら無駄になってしまうのか.この香水も蝋燭の炎も精油も.そんなことはない.これらの香りと前の晩を共に過ごした.前の晩を過ごした事実は変わらない.いっときの時間を共に過ごしたのだから.
私が過ごしたという事実は,誰も知らなくても厳存する.人の生とはそういうものではないか.
五十二の二.
死を望む気持ちとは,この世を好きになれないという気持ちだ.キリストはこの世を愛された.この世を救うために死ぬという形でそれを示した.自ら死ぬ意志をキリストに倣って変形するならば,この世の本当の価値が正しく見えてくるかもしれない.
五十二の三.
私は神のもの!と心で叫ぶと,人の世の支配や服従から自由になる.私は神のもの.
五十三.
私たちが救いを祈り続けるのは,私たちが簡単に悩み苦しみや生の問題を抱えてしまうからだ.一度救われて以降完全に救われている状態が続く人はおそらくいないはずだ.
私には1週間という時間がちょうど良い長さに思われる.適度に深く悩み,礼拝で適切な高さまで引き上げられる,その高さゆえに.
五十三の二.
礼拝と祈りで洗われ,私の中に残ったものでは,それだけでこの世で働いて生きる力にならないのはなぜなのだろう.何かが足りていないとしたら何だろう.
種が蒔かれたまま残って肥やしも光も水も足りてない畑,土壌が痩せたままのようである.
五十三の三.
神にゆるされるように終わりの日まで守り続けようとするのと,神にゆるされたが覚えていられないのでゆるしを乞い続けることの,どちらが幸せだろう.
当然,なぜ忘れてしまうのかおのれを責めるほうが自由な生き方である.
五十四.
人が人に起こす珍しさを人は偶然と呼び,神が人に贈った珍しさを人は必然と呼ぶ.
五十四の二.
神は珍しいことを好む.なぜなら,神にとっては全てが必然だから.造り主はご自身で造ったもののことは全てご存知だ.神はご自身に似せて人に珍しいことを好む心を持たせた.
神は人を珍しいことを起こすものとして造った.人は神の想定と異なる行動を起こし続けた.だから神は人を永遠に愛すことにした.人に神が愛していることを伝えるために,十字架の出来事と復活という,人にとって最も珍しいことを神は人に贈った.
五十四の三.
人間の教訓はしばしば的が外れる.特に信仰のない人の教えは信仰から人を離しがちだ.
誰を信じて行動するかという視点を幼い頃から持つべきだ,いや,人の言葉を信じるのではなく,神の言葉のほうを優先して信じることを,幼い頃から習慣にするべきだ.そうすれば,神の言葉から離れない人を見て生きることができる.
五十四の四.
人間の作った論理には大して興味がない.人工知能も人間ではわからない部分には面白さがある.
しかし何より神の論理をたくさん見つけたいと思う.地球,水陸境界,雲.自然の造形,生命や非生命の造作の論理やその存在理由は,無限の興味を掻き立てる.
五十四の五.
もし地球がもっと小さかったら,あるいは人間がもっと大きかったら,世界は小さくなり戦争も少なくなっただろう.地球も人間も神がこのサイズでつくったのだ.
五十四の六.
ナビエストークス方程式の仮説.全自然は決定論的に解けるが,人間がいる限り人間が予測不能で自然を乱し続ける,というもの.
コヘレトの言葉に,神は人に未来を知らせないように造ったとある.自然を予測不能にしている要因は人間のみであり,神が人間の知性のためにそうつくったのだ.
五十四の七.
人にとって神のなすことは常に珍しい.だが人のすることは,どんなに求められていることでも,いずれ珍しくなくなり誰にも欲されなくなる.
すべてはいずれ神に集まる.人に集まる物事は何でも一時的なもので,それをたのみとするには頼りない.
五十五.
神の必然を,人知は予め知ることができない.だから神は人に祈らせる.人が無知でも,遜って受け取る人を永遠に守るために.
知っていることに高い価値が払われるこの時代.知ってたかぶる人ではなく,知ってなお遜る人を神は守る.
五十五の二.
世の若者は言う,何者でもない自分ではなく何者かになりたいと.この思いは注意である.自分の力で何かを達成しても,得られるのは所詮この世の栄誉であり,成功の思いである.そんなものが本当にほしいのか.それで生きる苦悩が減り満足できると思うのか.
イエス・キリストの栄光の体と同じ形に変えてくださる神の力を待ち望むことのほうが,私には求めるべきものに思える.
五十五の三.
人の役に立つことを喜びとする人はこの国に多い.でもイエス・キリストは人の役に立ったか.何の役に立ったか.役に立つという言葉がふさわしくない,そんな次元の表現では言い尽くせない方である.
イエス・キリストのように生きるとは.この世でイエス・キリストのように働くとは.宗教活動が禁止され,利益のために利用するような支配関係の中に置かれ,フラットにも平等にも平和にもならない組織でどんな働きを神は求めるのか.祈り求めたい.
五十五の四.
クリスチャンからなる会社に転職したい思いは常にある.そのほうが幸せだろうと.
でも神は私をこの世的な会社に遣わして何らかの働きを求めている.
クリスチャンだけで閉じない組織の中で,神は私に試練を通して神の栄光をあらわそうとしている.どんな働きが求められているのか,まだわからないがいずれはっきりとわかるはずだ.
五十六.
結局人間は光を作ることができなかった.現代科学技術を以てしても.
イエスだけが全き光である.
それでいいんだろうか.虚しくなる.人の世には暗闇しかない.絶望しかない.そういうことになってしまうがそれでいいのか.
五十六の二.
自由意志は信仰のある人だけの持ち物だ.
なぜなら,信仰とは,意志をすて,従うことで,いつも与えられるものだから.人は自由を自分に与えることはできないから.
この意志をすてることで自由が与えられるという力学は,神学で解明されるべき,人の不思議な本性だと思う.
五十六の三.
自由意志は存在する.でもそれは人を自由にしないことも多い.もとは知恵の実の事件によって人に不自由ないし義務を与えるものだった.
自由な行動には対価が生まれる.車に乗ったらCO2が地上に出されてしまうように.ゆえに自由には責任が伴うと言われるのだ.
五十六の四.
詩人になるには,絶望さえすればよい.戦争が絶望装置となって,これからたくさんの詩人を生むだろう.
五十七.
主に従うとは,自分自身で選んだ道を歩まず,道であるイエスの道を歩むこと.
でもなぜイエスの道をまっすぐ歩めないのだろう.なぜ自分自身で選んだ道のほうを歩もうとするのだろう.
罪は楽しいがそれは一時的なもの.自分自身で選んだ道は結局楽しくない.なのになぜ自分自身で選んだ道のほうを歩もうとするのだろう.
五十七の二.
力への意志が世の中を歪め続けている.人の力を何よりも信じて行動するほど,人も世も何もかも歪める.
神の力を唯一とせよ,それ以外の力を空しいものとせよ.
五十七の三.
もしクリスチャンが神に服従する人たちでなかったら,ただ世界を支配したい人たちになってしまう.
クリスチャンが自己中心性をかなぐり捨てる必然である.
五十七の四.
私はもっと砕かれなくてはならなくて,今は楽しむよりも何よりも神に砕かれる時だ.神が今を砕く時に選んでいるなら,従うしかない.今を楽しめなくていい.楽しむ必要もない.
五十八.
私が聖書を読んでも誤読するから,と思ってあまり聖書を読んでいなかった.でも,読んで考えることが大事なんだと思い知り,また,牧師も答えを必ずしも持っているわけでもないと知り,クリスチャンとして共に考えることが大事だということで,基本的な知識くらい持っておこうと思う.
別に今は読みが浅くても気にしない.読んでおけばあとで深められるだろうから.
五十八の二.
好奇心は恐れをなくせる.でも自分やその可能性さえも忘れさせる.好奇心はその意味で危険でもある.
不安により虚無感を抱く.でも,虚しさは本来の自己存在を意識させる.虚しさを遠ざけてはならない.
わくわくする楽しいものと思うよりも,それ自体何の意味があるか虚しいと感じることを大事にしたい.
五十八の三.
好奇心による散乱をまとめるもの,信仰がそれだ.ひとつのことにまとまる.すなわち十字架と復活の出来事.
情報で散らばった自分の意識をまとめ上げるもの.それは祈ること.
普段を散らからないように生きること.みことばで整えること.
五十九.
時間に穴が空いて自分を失った歴史を持って生きてしまう.それではいけない.自分の生きている時間,生きてきた時間が,一貫してつながっているものにしたい.
穴が空いた時間は,本来の自分を失っていた時間だ.善く生きていなかった時間だ.信仰が薄まり主への感謝が縮こまったまま生きた時間だ.
主を求めなくては.将来のために.
六十.
真理を求めれば,精神性は養われるのだろうか.祈り求めれば,無精神性から脱却できるのか.
簡単ではないだろうけど,主はなんでもできる方だから,今からでも遅くないだろう.
今ぼんやりと思っているような一貫性のない自分が,違った角度から鮮やかに刷り直されることが起こるかもしれない.
六十一.
本来の自分は簡単に忘れてしまえる.楽しみが多く見つかる時代であるし,信仰を持っていても,自分を忘れてしまえる.
不安や負い目や良心の呵責は,心から追い出すべきネガティブなものではない.本来の自分を忘却から引き留める意味がある.
マイナスなものと考えて忘れてしまったら根源的なところさえ失くしてしまった,ということはよくあるから気をつけなくてはならない.
六十一の二.
信仰を持たない人は,今を楽しむために生きようとする.まず好きなことを見つけなさいという.
しかし,いくら享楽するための時間やお金を費やしても,楽しむことよりも深い幸せがありうることを,信仰がなければ知れないだろう.
今を楽しむより善い生き方がある.今を楽しむという誘惑を振り払いたい.
六十一の三.
イエスに対する負い目,イエスと比べた時の己の無力感によって,本来の私に戻ることができる.
不透明な時代とは,それだけ物事を認識できにくい状態が続いているということなので,少なくとも本来の私に戻って自己を認識したい.
そもそも時代より自己のほうが認識する意義が深い.
六十二.
もし私にいずれ栄光がもたらされるとしたら,それは非常に恥ずかしいことだ.神さまの栄光の大きさに比べたら,微かな偽物の輝きにすぎないからだ.
私が栄光を獲得することを人生の目標には絶対したくない.栄光は限りなく主のものとして生きたい.
六十二の二.
正直に言う.私は,自分の思いにとらわれているとき,幸福である.自分の外に出て神を見上げるとき,畏ろしく,ただ畏ろしい.
つまり,模範的な信仰に生きれば,私は幸福より畏怖をとることになる.
六十二の三.
聖化では自己否定によって神を中心とすることを教える.自己中心性,人間性の否定である.
多様性の主題は自己肯定,人間性の謳歌である.きよめと多様性は元来相容れないように思える.そこを乗り越える論理が見えない.
教会に行くたびに悲しくなる.人間性の価値を毀損しなくてはならないから.イエスはもはや悲しみを拭ってくれる存在ではない.イエスの愛は人間を否定する愛である.
人間否定の向こう,その先にあるはずの愛が,私にはまだ見えない.
六十二の四.
人によって見えている神は異なると牧師に感じてから,神がよく見えにくくなった.神をただ感じていただけだったからだ.でも理性ではどうやっても神を捉えられない.
心の平安が与えられた時に神を感じる,という牧師の神観を,気持ちの波が来ない安定した私の心は,まだ実感できない.
六十二の五.
神が人に与えているものは,人それぞれで時に必要になったものだから,その人が神に見ているものは自然と異なってくる.どの人にも共通した神の性質を認識したいがそれは私には無理だ.
私にとってはただ神が私に何を与えたか,何を与えられるかをしっかり知ることがまず大事だ.
私が誰かを知らなくては.
六十三.
天国には心の貧しい人しかいないのなら,天国での生活がなぜ良いものなのか,人間的想像を超えている.
あるいは本当に地上の心の貧しい人たちの世界のようなら,私は天国に期待するものを間違えていることになる.
六十三の二.
もし「とこしえの命」がこの世での命を意味するなら,死んでも生きることは希望を意味しない.
六十三の三.
死ぬことだけが事実ではない.産まれたことも確かな事実だ.人間とは,死に向かうだけでなく.生にとどまる存在でもある.
六十四.
祈れば叶う.個人的なことはそうだろう.でも,利害の対立する複数の祈りについては,両方とも叶えられるとは限らない.むしろ,両者にとって意外な形で叶えられるだろう.
このことからも,やはり神は全ての祈りをきいているのだと思う.
六十四の二.
祈っても現実にならないとき,見ないのに信じる人は幸いである,という御言葉が聖霊によって与えられる.
見たら,変化したら,望みが叶ったら,信じる.というのはトマス的.
祈る目的は,自分の願いを叶えてもらうためでない.自我を磔にして殺すために祈るのだ.
六十五.
教会という場所は好きでもない.でも,人生で必要なことはすべて教会で教わったのだと何よりも確信して言える.教会とは不思議な場所だ.
六十五の二.
教会で許されることで,社会では許されないことは多くある.教会に慣れると社会生活が苦しくなる面がある.
教会へ行っても生きる意味はわからない.むしろ人間性を否定されることも多い.人間性を認められるから人間らしく生きられるはずなのに,教会という場はそうでない.
六十五の三.
教会での教えと,この世での現実生活での考え方とが,合わなくて,悩んでいる.
教会から離れたい.自分を守らなければならないが,そう語ると自己中心性を咎められる.何をしても問題にされる.教会では何も話したくない.何もしたくない.
しかし,教会に合わせたいと思っている.この世での考え方のほうを直したいと思っている.
この世の常識から外れていくのを自分に許したい.それで生き抜けられたら感謝したい.
六十六.
選ぶのは神だろう.宣教とは,神に選ばれている人を見つける行為なのだろうか.
信仰を持たない人は,神に選ばれていない人なのだろうか.神に選ばれていない人を伝道するのは不可能だろうか.
宣教によって初めて人が選ばれることはない.神は母の胎にいる時からすでに決めているそうだから.
神はなぜ選ばれない人を早々に決めているのだろう.
六十七.
礼拝で神に感謝しないと,神を畏れるどころか,怖れすぎてしまう.
神は怖い.感謝しなければ怖さは募るばかり.神に感謝を捧げる理由のひとつだと思う.
六十七の二.
教会とSNSがこれほど相性が良くないので,教会の将来が危ぶまれる.
なぜ相性が悪いのか.原因が「権威の一方向性」だとするなら,説教が成り立つには工夫や変革がいる.授業や講義さえ成立が難しい時代だ.
SNSが悪者なのではない.クリスチャンのひとりとして,礼拝の形式に危機感を覚える.
六十八.
奴隷道徳だけが真理でもない.君主道徳で立派な風に生きている人もいる.
私はすっかり奴隷道徳に染まってしまったけど,それだけが真理ではないと弁えて働いている.結局は,奴隷道徳のほうが強いことも知っている.
六十八の二.
死んでもずっと生きる場は,この世ではなく天国だ.「死んだらこの世から消えたい」との願いは叶えられるだろう.
詩篇の通り,人なんて風に飛ぶ籾殻.人生は吹けば飛ぶほどの無意味さ.悪人でなく信仰を持つ人は天に挙げてくれるそうだが,天に挙げられること以上に地上に生きる意味があるなら教えてほしい.
天国が待ち遠しく感じられる.
六十八の三.
人は塵から創られ塵に返り,人が作った物はどれも塵を変形したもの.失ったとは返したことである.
こう思うと寂しくなるのはなぜだろう.なぜこの世に生まれて生きていくのだろう.
寂しさとは,何だろう.
六十八の四.
この世にない見えない価値のみに生きるなら,この世で生きる価値もなくなってしまわないか.いつ死んでもおかしくないし,死を自ら選んだっていい.
主に救われた人は,この世での余生をどう捉えているのだろう.早く天に行きたいとか思わないだろうか.
南海トラフや首都直下型地震のことを時折考える.防災の備えはしているし,いつ死んでもいいようにしている.
神がいつ裁きの時を与えるか注目している.
六十八の五.
隣人を自分のように愛すことが極めて難しい人もいる.自分を虐め,過去も人格も全否定してしまいがちな,私のような人だ.イエスの教えが辛いのだ.
私は神を知りたいのでも,神に興味があるのでもない.神について知らなければならなくなってしまっただけだ.
神は私が生きる上で大問題なのだ.できることなら,救われた後そのまま知らずに済ませたかった.
私は神を好きではない.神が私を愛し続けるとしても.
六十九.
朝の光も,夜の闇も,夢も,昔は信仰と直接つながっていた.それらを日常的な現象として切り離してきたのは,おそらく科学だ.科学的世界観だ.
いまはこの世界観が真実だと思われすぎていて,信仰を持てる余地が縮まっている.
科学はどこまでも正しくあれるのかもしれないが,信仰的世界観に生きる人生にもまた真実味が深いはずだ.
七十.
小説を読んでも歌唱を聴いても映画を観ても,何をして楽しんでも,いつも心のどこかで空しさを覚え,眠ればほとんど忘れる.
それこそが幸せのしるし,すなわち心の貧しいしるしなのだ.
七十の二.
食べる,と対になるのは,歌う,だ.おなかに入れることと,おなかから出すことだから.しかも命懸けで.日用の糧を与えられた分,賛美で神をほめ称える.なんと美しい関係だろう.
七十一.
主に感謝すると,悩み苦しみは消えるが,感謝を忘れるので,また感謝をしなくてはならなくなる.
信仰を持ったら感謝しなくてはならない.論理的にもそうするしかない.感謝する自動機械になった感じがする.
七十一の二.
神を神とせよ,との教えは,神はありのままの神として認められることを望むという意味になる.だから神はありのままの私を愛し続けるのだと.
私には,私を私として認められることを望む思いがない.私はどんな私として見られたって良い.
ありのままの神が私には見えない.
七十一の三.
教会では,信じるという次元に正しさを持ち込む.各自が信じる方向に向けて進めばいいとは捉えない.神の名のもとに間違った信じ方を矯正しようとする.
私のこの意見は聖書的に考えれば,正しくない.それどころか,このように考える私は悪人である.全てに正しさを要求する世界にいることができない.
私は,聖書的にではなく,日本人的にしか,神を信仰できない.私の信仰が聖書的な信仰ではないと指摘されればその通りと受け取る.この多様性の時代に「真の聖書信仰」というのがあるとすれば,私は距離をとって眺めるしかない.そこに参加することができない.
七十一の四.
多様性の起源を考えるとき,ペンテコステの舌の出来事は深く参考になる.
七十二.
慰められうることがなぜ幸せか.自分以外の存在へと融けていく,自分の境界線を超えて自分を融け合わせられるからだ.
慰めによって自分が太くなり,自分の軸が強くなる.つまり,悲しみとは今の自分を超えて何かと融け合いたいという気持ちなのだ.
七十二の二.
感動とは本来は悲しみであり,快楽を受けたときは自分を戒めなくてはならない.
七十三.
いつも満たされない人たちは,正しさを求めない.欲求不満とは,自分が正しいと誰にも認められていない状態だ.
満たされたければ,何よりも正しさを追求せよ.満たされないものを満たされない方法で追求しないこと.
正しいことを行っていれば,誹謗中傷のたびに天国が大きく近づいてくる.
七十四.
この世が暗くあり続けるのは,人の努力不足や無能のためでなく,神が人をそのようにしかつくらなかったためだ.賜物とは,神のもとで,あくまで自身の生活のために活かすだけのもので,神に並ぶためのものであるわけない.
どんな産業も必要悪にすぎない.人の成すことは何でも,神の成すことに及ばない.
七十四の二.
心を豊かにする読書によって天国から離れてしまうのなら,読書もこの世の悪の遊びのひとつにすぎない.
七十五.
毎日を楽しく過ごさなくてもいい.楽しさとは別の価値もある.今日1日を無事に生き延びられただけで,大きなことである.
七十五の二.
人間性に絶望し,自分の精神を不要だと考えて捨て切ってしまえば,生きるのが簡単になり,ストレスもなくなって生きやすくなる.それで楽しいことがあれば別に問題なく楽しんで暮らせる.
しかし,それでいいのか.私も含め,実存を拒否し,透明な自分を前提として生きる道を選ぶと,顛末はどうなるか.
七十五の三.
現代世界では,イエスを必要としなくても幸せに生きられる人がわりといる.という仮説は考える価値がある.必要とする人もいると思うけど.
なぜ私はまだキリスト教なのか.これに答えられないといけない.
七十五の四.
イエスは敵である.だから私はイエスを愛す.イエスは私を迫害する.だから私はイエスのために祈る.
イエスを迫害者と思うほど,私は心が貧しい人間だ.だから私は幸いで天国をものにできる.
私の隣人はイエス.私は自分のように隣人イエスを愛す.私の隣人も同様にイエスを愛す.さらにその隣人もイエスを愛す.そうしてイエスを愛す人は増えていく.
七十六.
明らかに,答えもヒントも課題も,聖書にある.にもかかわらず,モダンな哲学や芸術科学に今を生きるヒントや楽しみを求めてしまう.それらが聖書に基づいたものとは限らないのに.
現代のこの近代の遺産に囲まれすぎる環境にいても,聖書から全方位に認識できるよう物の考え方を構築し直さなくてはならないし,その視座を2度と忘れたくない.
近現代とは,自分軸に熱狂し,神を忘れた,ただそれだけの時代だから.
七十六の二.
自分がこうだから誰もがこう、という論法では,教訓は述べられるが人間的事実にはならない.
私は聖書をこう読んだからこれが聖書理解,という論法では,感想にはなるが普遍的理解にはなりにくい.
神と私の関係を考察するだけでは何かが足りない.
七十六の三.
もし説教の考察が,自分と神との関係までしか原理的に止まらざるを得ないなら,自分と神との関係を畏れ多くもそのまま普遍性に展開するしかできないなら,それは説教という形式の限界を示している.
すなわち,多様性を認める形式が説教には含まれない.神と個人的につながっているだけでは普遍性には至れない.
七十六の四.
狭い集団で信念を強化するのが怖いので,私は教会内では同調することをやめようと思う.できるだけ別の視点に立った意見を言おうと思う.
教会を危うい場所にするのは私たち信徒でもある.教会をそうしたくない.
七十六の五.
牧師の説教はほとんど理解できない.印象に残った内容を平日によく思い返し,検討し,もう礼拝には参加できないと諦めつつ,ある程度腑に落ちたと思ったら日曜日.勇気を出してまた礼拝に足を向ける.私の信仰生活はこの繰り返しだ.
七十七.
私の人生には,信仰を決めた時期の「ジャンプ」がある.それゆえ,連続していない一貫性に欠ける人生になっている,と感じている.
自分を振り返る時,それが不自然さとなってくる.信仰はそういうものだ,とは思えるにしても,自分の人生が不自然でいいのだろうか.
七十七の二.
クリスチャンになって私は新しく生まれ変わった.しかし,この不連続な人生認識を私は耐えられない.私の人生は連続した時間だと思いたい.アイデンティティを失ったまま,どこにも根が張れないからだ.
日本人らしく育った27年間と,そこから離陸した10年間以降を,両方保つ道を探って生きるしかない.
七十七の三.
今の暮らしがずっと続くのではない.現状維持も更なる改善も期待できない.今は順境で幸福だが,この幸福は満額では持続しない.様々な不幸に削り取られうる.
今のこの幸福とは異質の幸福に満たされることもあるのかもしれない.私はまだ,心の貧しい人の幸いを知らない.
七十七の四.
食べる物と着る物があればそれで満足しなさい,と聖句にある.これからこの聖句を実践すると決めた.生活費を下げ,聖書を読み,今まで大切にしていたことがらであろうと聖句に自分を作り変えてもらう.
聖書によって新しく自分を作り変えてもらうことを,これからも時々行うべきだと覚えておきたい.
七十七の五.
これ以上何を豊かにするの,という問題は,私個人の問題だけでもないだろう.
欲しい物を買っているという実感があまりない.私がこれが欲しいから買っている,のではなく,いい物だと勧められて自分でもいい気がするので買うことにしている.それが私の買い物の実態だ.
この資本主義のルールで不自由になるくらいなら,物と欲を軽蔑して生きたいと思う.
七十八.
私には,日本人もっとキリストを知るべきだとの強い思いがある.でも同時に,日本らしい世界観やそこから出た文化をキリスト教に消されてほしくないとの思いも強くある.
禅や祭りや神社や八百万の神や芸能や精進料理などなど,日本のエスニックな部分を保存持続してほしいと非常に思う.
なので考えると葛藤する.意識して考えないでおいている.
七十八の二.
どんな指導者にも,いつか己が間違っていたと気づく時が来ますように.力や権力や経済環境によってそうせざるを得ないとしても,本心で平和を思うのならば,その本心のほうが現実になりますように.永遠に続かない力や権力や経済環境のために平和を壊す行為の虚しさを悟れますように.
七十八の三.
信仰の世界観を,クリスチャンではない人たちはどうとでも言える.死ぬときまで希望を持ち続けるための知識だとか,不安や絶望を根こそぎ消すための洗脳だとか,愚かな人が正しく生きるための体系だとか.そんな人たちはどうとでも自由に思っていればいい.
クリスチャンだって,信仰の持たない人たちのことをどんなに考えても正しくはわからないのだ.この分断をどう崩していけるか.
七十八の四.
感謝とは,自分自身の道にはない出来事にこたえること.その道端の石ころさえ,今まで見えなかったものであるなら,それに感謝できる.
イエスの道を示されるとき,感謝できる.感謝は「しるし」だ.
七十九.
名誉や資産や見栄のためでなく,愛のために皆が生きられますように.他人との間に差異を設けることに喜びを見出すのではなく,他者を愛する日々を喜べますように.
愛のほかに人生の目的を作らなくて済むような社会に変化しますように.若い人が愛よりも大事なことを欲したいと思ってしまうほど辛い人生経験をしなくて済みますように.
永遠に続かない構造を愛よりも優先しませんように.
アーメン.